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実践する思考

主に社会科学と教育に関して、また読んだ本の書評も書いていくつもりです。

柳田の真意(前回の記事の補足)

前回の記事の中で

柳田国男の言う一人前の選挙民は生み出されていないように思う。というのも、一人前の選挙民とは、新聞を批判的に読む能力を有する者であり、新聞離れが顕著な現状において新聞を批判的に読むどころか触れない者が増えいているのだから、一人前の選挙民が多くいるとは思えない。

という旨のことを書いた。

 

確かに、新聞を読む者は量的には減少している。しかし、それは一人前の選挙民がいないことを意味するわけではない。なぜならば、柳田にとって、新聞とは個人が世間との接点を持つための手段であり、それは終戦後における有力なツールだったにすぎない。現代において世間との接点を保つ手段としては、新聞に限らず、ネットニュースやSNS、2ちゃんねるなどのネット掲示板など多くの手段がある。例えば、今年の1月に大統領に就任したアメリカのトランプ大統領は既存のマスメディアではなくTwitterを中心に情報発信をしており、場合によっては、個人が自分で情報収集したほうが新聞よりも早く情報を手に入れられる時もある。

 

そして、重要なのはそうしたツールを通じて得た情報を批判的に吟味できるかどうかである。私が前回の記事で文部科学省や教育機関の怠慢として批判したかった点は、この知的営為を学校で教えてこなかった点である。そうした怠慢の結果が、選挙において如実に表れていると思う。例えば、2005年の衆議院議員総選挙において、自民党郵政民営化を単一争点として選挙に臨んだ。結果として、自民党は多数の議席を確保し、郵政民営化を断行した。しかし、その時、多くの有権者はどの程度郵政民営化について理解していただろうか。民営化によって市場経済に対応しなければならなくなるのだから、採算の合わない僻地の住民の生活がどうなるのか、当の本人たちは考えたのだろうか。

 

こうした知的態度を持つ人は、ニュースのコメント欄やネットの掲示板、またSNSなどで散見できる。しかし、大規模な社会的事象の結果から大多数の人間がどのような態度をもっているか類推することもできる。その点、柳田の期待した「一人前の選挙民」はまだ有権者の多数派とはなっていないようだ。放置されてきた有権者の質を高めることこそが、教育界に課せられた使命である。

柳田の理想と教育界のサボタージュ

民俗学者柳田国男は、戦後に新設された社会科の目標を「一人前の選挙民をつくること」とした(西内裕一「『柳田社会科』の目標と内容についての考察」)。

ここでいう一人前とは、手紙が書ける程度の平凡な能力、そして新聞が読め、世間の動向を把握できることのできる人間である。その中でも柳田が特に重視したのは、新聞を批判的に読むことのできる能力である。したがって、社会科の目標の一つは、当然新聞に書いてある事象を批判する価値尺度を内在化した人間を作ることが目標となる。柳田はこうした能力を義務教育終了までに身につけさせるべきだと考えた。

 

上記のうちの新聞を批判的に読むということを、現代的に解釈すれば、新聞だけでなく、テレビのニュースやインターネット上のニュースサイトも含むだろう。私はニュースを考える最高のツールは新聞だと思うので、ここでは新聞にのみ焦点を当てて考えてみたい。

 

柳田が上記のことを述べてから50年以上が経過している。しかし、周りを見渡してみると、新聞を批判的に読むことはおろか、新聞を読むことすら放棄している学生が非常に多いようだ。マイナビの調査によれば、大学生の新聞離れは著しいようだ(https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/38012)。こうした状況から鑑みるに、柳田のいう一人前の選挙民は少なくとも義務教育終了段階では達成されていない。

 

思うに、それは新聞の読み方や「批判的な」読み方を学校で教わっていないことに起因している。すなわち、教育業界が「サボって」きたのだ。そのサボりの蓄積は、日々のニュースを批判的に考えることはおろか、理解しようともしない脱政治的な態度をもつ人々を生み出してしまったのだろう。50年以上さぼってきたツケは功を奏し、投票に棄権する人々を大量に生み出している。半人前の選挙民を多く生み出してきた教育界の罪は重い。

安定した政治のための工夫

アメリカでは大統領選挙の真最中である。ドナルド・トランプ氏が共和党の正式候補となり、民主党の正式候補となったヒラリー・クリントン氏と激戦を繰り広げている。世界最強国家の首長を決定するだけあって、アメリカ国内だけでなく世界中から、次のリーダーが誰になるのか注目を集めている。そして、太平洋を隔てた日本でもリーダーの選出方法に関する議論がなされている。それが首相公選制である。

 

首相公選制とは、行政府の長である内閣総理大臣を国民が直接選出する制度である。小泉元首相や橋下徹大阪市長が導入を盛んに主張したことで、国民的議論に火が付いたように思う。賛成意見の多くは、より民意を反映するために国民が首相を直接選ぶべきというものだ。一方、反対意見もあり、候補者が人気取りに終始し、十分な政策論議がなされないといった声もある。実際、中南米では大統領などが独裁者と化し、政治が腐敗してしまった国もある。

 

しかし、国家元首を直接選ぶアメリカでは大きな混乱などなく、政治状況も安定しているように見える。思うに、アメリカの政治状況が安定しているのには、制度的な背景があるのではないか。一つには権力分立が徹底しているという点、もう一つは選挙期間が約一年間とかなり長い点だ。

 

権力分立の徹底とは、立法府・行政府・司法府の三権で厳しい監視と抑止が相互になされているということである。大統領は国民の直接選挙を通じて選出されるため、民主的正当性が強く、強大な権力がある。例えば、議会に対する拒否権や条約締結権を保持している。しかし、議会にも強い権限があり、大統領が結んだ条約締結の同意権や弾劾裁判を設置することで非行のあった大統領を罷免することができる。このように大統領が独裁化しないような制度的工夫がなされており、また、裁判所は違憲立法審査権を持っているため、立法権司法権に対する司法権の優位が制度化されている。三権が相互に抑制しあうことで、いずれかの機関が独裁化しないようになっている。

 

選挙期間の長さも政治状況の安定に寄与している。アメリカの大統領選挙は約一年間かけて行われる。まず、政党ごとの候補者争いである予備選挙が行われる。予備選挙には7,8か月ほどの期間を要し、政党ごとの候補者が決定した後に、各政党の候補者同士が争う本選挙が行われる。本選挙は二か月ほどかけて行われる。

 

こうした選挙期間の長さは、有権者候補者を認知し、また候補者について学ぶ時間を提供している。さらには、予備選挙と本選挙に分かれているために、有権者が節目ごとに候補者選びを意識する制度的工夫がなされている。選挙期間の長さによって有権者候補者について十分に学ぶことができ、十分な政策論議ができ、一時の熱情ではなく冷静に候補者を選ぶことができる。そして、段階ごとの選挙方式によって、有権者が選挙に興味を失わない工夫がなされている。長い時間をかけて選ばれた候補者は民意をより反映しているのだ。

 

厳格な権力分立と長期間の大統領選挙の存在が、アメリカに安定した政治状況をもたらしている。建国者の巧みな制度設計によって、アメリカが国家元首を直接選出する方法を採用していても、大きな混乱がないといえよう。さて、次の大統領は誰なのか、遠い日本に住む私も興味津々である。

財政投融資とは何か。

政府の経済対策が28兆円に上ることが今月2日決まった。リニア中央新幹線の全線開業の前倒しなどにより大規模なものとなったが、不安の種は財源をどうするかということである。政府は建設国債を発行するほか、財政投融資で賄うとしている。あまり聞きなれない言葉である財政投融資とはいったい何なのか。今日はこれを解説していきたい。

 財政投融資とは、国債の一種である財投債を政府が発行して資金を調達し、それを財源として政府系の金融機関などの財政機関に低金利で融資し、それを元手に財政機関が中小企業などに融資することである。

国債とは簡単に言えば政府の借金だ。予算案を執行する上で、税金による歳入だけでは賄いきれない場合がある。その場合、国債などを発行することで、不足していた税収を補うことができる。国債には建設国債特例国債赤字国債)、そして財投債などがある。

財政投融資が他の国債と大きく異なる点は、政府だけでなく独立行政法人や公庫などの財政機関も債券を発行して資金を調達するという点である。債権には3つの種類があり、財政機関債、政府保証債、財投債に分けることができる。3つのどれかを発行することで、独自に金融市場から資金を調達しているのだ。

第1に、財政機関債は財政機関が発行する債券である。次に、政府保証債は政府が元本と利子の支払いを保証して発行する債券であり、政府が保障することで市場からの信用が得られ、資金調達が容易になる。最後に、財投債も政府が発行する債券だが、調達資金を財政機関が直接手に入れるわけではなく、政府が得た資金が財政融資資金として財政機関に融資される。

つまるところ、財政投融資は予算を執行する上で必要な資金を調達することである。国債の発行も財政投融資も本質は借金をすることだ。ただし、事業を行う独立行政法人や資金を必要とする政府系金融機関が中心となって資金を調達する点が、政府が主導して発行する国債と大きく異なるといえよう。

北海道新幹線から考える資本主義

北海道新幹線が3月26日に開業してから3週間が経過した。整備計画が立てられてから実に43年が経過しており、まさに日本中を新幹線で結びつけるという「悲願」が達成された事業だといえる。しかし、前評判ほど業績は良くないようだ。開業2週間時点での平均乗車率は27%を記録しており、JR北海道によれば「今後3年間の収支見通しは約48億円の赤字」である。


こうした事態は、人々が新たな移動手段を求めていないこと、とりわけ北海道への新たな移動手段を求めていないということを意味している。消費者は既存の手段で満足しており、開拓する市場がほとんどないのである。


市場とはモノとモノを交換する場であり、モノの中には商品だけでなくサービスも含まれる。モノの交換は必要性から生じる。例えば、人々が「速さ」を求めるなら、自動車より電車、電車よりも飛行機というように、より早く移動できるサービスを求める。


翻って見ると、北海道新幹線は東京-函館間で飛行機による移動の1.5倍の時間がかかるため、既存の移動手段に対して「速さ」という点で劣っている。価格という点から見ても、特段安いわけではない。したがって、既存の移動手段と比べて市場価値があるとは言えないだろう。


必要性がないにもかかわらず、市場ではどんどん新たなモノが作り続けられる。そこには、人々が必要性に駆られて行う交易という市場本来の姿はない。需要のないところに需要を作り出そうとして失敗した。まさに資本主義の暴走という事態が生じているのだ。


資本主義は市場の拡大をその原理としている。つまり、資本を集積し、その資本を元手に新たな市場を開拓することで、さらなる資本の集積を行う。しかし、北海道新幹線の乗車率が3分の1にも満たないという事実は、拡大するべき市場が既につき始めていることを物語っている。そろそろ日本における資本主義は限界を迎えつつあるのではないだろうか。ニュースを見て、そんなことを考えた

共同体を作る宗教

 

最近、「絆」や「コミュニケーション」、「コミュニティ―」といった言葉をよく耳にする。なぜ、今になって絆やコミュニケーションといったことが注目されるようになったのかを、宗教をキーワードに考えてみたい。

 

宗教とは、人々の共通の価値観を提供するものである。特定の価値観を共有することで、人々は共同体を形成する。すなわち、宗教共同体である。たとえば、中世のヨーロッパではキリスト教が広く普及し、人々の価値観から生活までをも規定していた。共同体の頂点に立っていたのがローマ教皇であり、彼を中心として西ヨーロッパにはキリスト教に基づく宗教共同体が形成されていた。また、イスラーム教においては、その教えに基づく宗教共同体のことをウンマと呼び、人々はウンマにおいてイスラームの教えに従って生活している。ただし、コーランに書かれているままに従うのではなく、現代的に解釈されたイスラーム法に従っている。だから現代でもイスラム法学者は指導的地位にある。では、そうした宗教共同体は日本にあるのだろうか。

 

かつての日本では、人々の生活の領域は小さな共同体に限定されていた。つまり、農村や漁村などの村社会の内部で多くの人々は生活していたのである。人々は互いに面識のある間柄において生活していた。そうした人々によって形成されたのが、「世間」である。

 

辞書を見ると、世間とは「社会」や「自分の活動・交際の範囲」と定義されている。すなわち、世間とは人々の集合体であり、その集合体はある一定の範囲に限定される。したがって、地域性を持った社会が世間であり、たとえばご近所付き合いや町内会、自治会などが該当するだろう。

 

世間は社会であると同時に宗教でもある。なぜなら、世間は人々の結びつきの上に作られるものであり、一方で人々に共通の価値観を提供するからである。たとえば、村では村掟という村のルールが作られ、それに反したものは村八分という形で排除された。つまり、共同体を構成するものは村掟という共通の価値観に従うことを要求されるのである。また、「世間様に顔向けできない」という言葉があるように、「世間」が人々の行動の規範となっていたのである。人々の行動を律するという点において、「世間」は宗教的な側面を有しているといえよう。

 

しかし、インターネットの普及や都市化によって地域社会における交流がめっきり減少してしまった。つまり、誰かと協力して生きる必要性がなく、娯楽が多様化し、情報を得る手段が広く普及したことによって、社会の個人化が進行し、その結果として地域社会が消滅したのである。それは地域社会における「世間」の消滅を意味し、同時に人々の行動を律するものがなくなったことも意味する。「世間」という宗教がなくなったことで、人々は行動の野放図的な自由を手にしたのである。

 

「世間」という宗教がなくなったことで、人々は「自由」になった。しかし、その消滅が招いたものは人々の地域社会からの孤立であり、また行動規範たる道徳の崩壊という帰結だったと思う。そうした文脈の中に、人々の紐帯である「絆」だとか、紐帯を作り上げる「コミュニケーション」、そしてその日常的な空間である「コミュニティー」が今の時代になって注目を集めているのだと思う。

 

 

社会主義という宗教

 

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教キリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 

イスラム教アラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

 

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

 

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。