実践する思考

主に社会科学と教育に関して、また読んだ本の書評も書いていくつもりです。

敷居は徐々に低くするもの

討議民主主義という試みがある。市民が話し合いのうえで合意し、合意は政策決定の過程で考慮されなければならないというものである。現在の単純に投票を重視する民主主義とは異なり、市民の討議の結果を政策に反映することが重視されている。2010年前後に、三鷹市をはじめ全国の市町村で実際に行われていたが、現在はほとんど行われていない。

 

この民主主義観には、政策の影響を受ける全ての市民が参加し、合意しなければならないという理念が含まれている。門戸を開き、かつ全員が討論に参加することを謳う。そうしなければ排除されてしまう者や合意に意見が反映されない者が生じるため、確かに重要な規定であろう。しかし、現実的には全員参加など不可能であり、参加意欲のないものもいる。

 

だからこそ、最初は話し合う意欲や能力のある者だけが参加すればよいと思う。というのも、話し合いには知識や理性的に話す態度が必要であり、またそうした能力をたとえ持っていたとしても、参加意欲がなければ、討議は成立しないからだ。まずは門戸を開き、討議を開催する。やがて、討議の存在が様々な人に知れ渡り、討議が社会的に普及していく。そして、スキルのない人も参加の過程で必要な能力を身につけていく。これは経済の理屈と同じである。

 

偉大な発明品は、最初は高価で庶民に手の届かないものだった。テレビやラジオなども、初期は裕福な者だけが購入でき、やがて大量生産されて、コストが下がり、庶民も買えるようになった。金もスキルも資源という点では同じである。製品の購入には金が必要であり、討議にはスキルが必要である。技術や意欲のある者が最初に参加し、やがて多くの人が参加し、普及していく。それにより参加の敷居が下がり、ある程度の年月をかけて討議が文化的に定着していくのではないのだろうか。参加を募るためにもまずは認知してもらうことが重要なのではないだろうか。

神社の楽しみ方

樹齢数百年の高木に阻まれ、陽光はまばらに射している。場所によっては昼間でも暗く、鎮守の森が古来より続いてきたことを想起させる。俗世とは無縁な静謐な環境は、そこになにか神聖なものを感じさせる。神社に参拝した時、こうした独特の雰囲気を感じられた方もいるのではないだろうか。

 

これらは神社を参拝する大きな魅力だろう。しかし、それだけでは単なるリフレッシュ効果を期待したレジャーに過ぎない。神社を参拝する醍醐味は、その謎解きにもあると思う。

 

たとえば、祀られている神から、その地域の歴史を考察することができる。例として、東京都あきる野市にある阿伎留神社をあげてみたい。阿伎留神社の祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)である。この神は水神で、五穀豊穣や国土開発をつかさどっている。こうしたご利益から、この地に移り住んだ人たちが農業の繁栄(五穀豊穣)などを祈って、大物主神を祀ったことが想像できる。

 

それだけではない。神社と地名が同じ場合、地名を考える楽しみも生まれる。阿伎留神社の「阿伎留」は「あきる野市」の由来ともなっている。阿伎留の語源は「畦(あぜ)」を「切る」である。「畦」とは「畦道」のことであり、「畦を切る」とは未開拓地を開発するという意味である。つまり、本来この地域は未開の地であったが、ここに移り住んだ人々が開発を始めた。そこから「畔を切る」が「阿伎留」という名前に転じた。開拓の成功を願う人々は「阿伎留神社」という形で神様を祀り、その成功を祈ったというわけだ。

 

神社の由来を調べる中で、いろいろな想像を膨らませる。その上で神社を訪ねた時に神社の建築様式や規模などを見ると、その神社の建築年代やどれほど人々から崇敬されてきたのかが分かってくる。もちろん、想像で終わらせるだけでなく、文献を調べ、答え合わせをすることが肝心だ。この謎解きこそが私の思う神社の魅力である。

 

全国には8万社以上の神社があるという。まだまだ謎解きができると思うと、楽しみで仕方がない。

日本再発見

明治維新を経て西洋的価値観が一気に日本に流入した。民主主義("democracy")もそのうちの一つであった。民衆による統治という民主主義の概念は、天皇による統治を国体とする日本の歴史とは対極に位置しているように見える。しかし、民主主義と親和性を持つ価値観は日本の歴史の中からいくつも見出すことができる。

 

その一つが聖徳太子の十七条の憲法である。その一条には「和を以て貴しとなす」とある。ここでは、おたがいに仲良く、調和することが大事だと説いている。その際に、不満があればお互いに言い合い、理解しあうことが大事だとしている。つまり、話し合いを通じて合意形成を図るという民主主義的価値観を1400年以上前の日本の為政者は有していたのだ。

 

また「和歌の前の平等」という言葉がある。渡部昇一上智大名誉教授によれば、「歌を詠む場というのは身分がない」というのだ。例えば、『万葉集』には防人歌など東国の人々の歌が多く掲載されている。ここから、良い歌であれば身分を問わず、平等に取り扱う理念があったことが読み取れる。これは、句会などが身分や階級にこだわらずに行われたことからも、伝統として生き続けていることがわかる。民主主義における重要な価値観である「法の下の平等」が実現するのは日本国憲法を待たなければならなかった。しかし、「芸術の下の平等」は奈良時代から連綿と受け継がれていたのである。

 

このように、日本には民主主義と親和性を持つ価値観が古来より受け継がれてきた。明治時代になって西洋から完全に輸入したのではなく、実は自前の「民主主義」を持っていた。ステレオタイプで歴史を見るのではなく、いつもと異なる視点から眺めることで新たな日本の姿が現れたのである。

 

 

 

 

アメリカは閉じていく

 

第二次世界大戦後、アメリカはGATT(現在のWTO)の設立など国際貿易体制の構築を主導してきた。今、その体制は主導者自身によって骨抜きにされつつある。トランプ大統領は、中国が知的財産権を侵害しているかの実態調査を米通商代表部に命じた。不正が認められれば、中国製品に対して輸入制限が行われる。

アメリカは、WTOを通じてではなく、自国の法律に基づいて国際問題を解決しようとしている。しかも、対話ではなく、輸入制限という脅しをかけてである。自国のためになりふり構わぬようになった大国は、今までのように目線を世界ではなく、国内に向けている。かつてのグローバル化の旗振り役は、今度は閉じる方向に向かいつつあるのだ。 

 

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政治参加の意義

フランス革命に大きく影響を与えたルソーは次のような言葉を残している。

 

 「イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。 自由なのは、議会の議員を占拠する間であり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷 であり、無に等しいものになる」。(ルソー(2008年)『社会契約論』中山元訳、光文 社、192頁)

 

ここでルソーは、選挙期間以外において人民は奴隷であると論じている。選挙とは代表者を選出することであり、代表者とは人民(主権者)の代わりに政治を行う者を指す。代表者の権力基盤の正統性は人民によって選ばれたことであり、その政治には選んだ人民の意向が反映されなければならない。しかし、代表者は往々にして民意に反する政治を行うことがある。

 

例えば、経団連など利益団体の便宜を図る利益政治が行われたり、官僚による政策決定への裁量権が増大したりする場合である。こうした問題は利益集団自由主義(ロウィ)や行政国家の肥大化によって生じる問題であり、民意ではなく利益集団や官僚の意向が政治に反映されているのである。

 

だからこそ、丸山眞男が言うように代表に対して常に監視し、抑制することが必要なのである。そのための一つの方法が政治参加である。例えば、現行の制度下では、議員へのロビイング活動、地方自治体への請願、住民投票、デモや集会などが認められている。こうした活動によって代表者に絶えず揺さぶりをかけ、代表者に監視されているという意識を持たせることで、代表者は民意に沿った政治を行うようになる。公民権運動のように奴隷解放運動を行うことで、奴隷は奴隷でなくなるのだ。

 

制度として試行段階の政治参加の手法もある。ハーバーマスやディーネルらの唱える討議デモクラシーだ。これは、市民自らが政策決定や法の制定過程への参加する試みである。ここでは、市民は政策の立案ではなく問題の発見などに役割を限定される。というのも、政策の立案は代表者や官僚が行うことであり、重要なことは政策の前提としての問題を市民が十分に討議することで、代表者たちはその問題に対する政策決定や法の制定をする上で正統性を得られるという点である。この過程で市民は学習し、民主主義の担い手として成長していく。したがって、討議デモクラシーは人民を奴隷から貴族へと知的に洗練させる方法でもあるのだ。

柳田の真意(前回の記事の補足)

前回の記事の中で

柳田国男の言う一人前の選挙民は生み出されていないように思う。というのも、一人前の選挙民とは、新聞を批判的に読む能力を有する者であり、新聞離れが顕著な現状において新聞を批判的に読むどころか触れない者が増えいているのだから、一人前の選挙民が多くいるとは思えない。

という旨のことを書いた。

 

確かに、新聞を読む者は量的には減少している。しかし、それは一人前の選挙民がいないことを意味するわけではない。なぜならば、柳田にとって、新聞とは個人が世間との接点を持つための手段であり、それは終戦後における有力なツールだったにすぎない。現代において世間との接点を保つ手段としては、新聞に限らず、ネットニュースやSNS、2ちゃんねるなどのネット掲示板など多くの手段がある。例えば、今年の1月に大統領に就任したアメリカのトランプ大統領は既存のマスメディアではなくTwitterを中心に情報発信をしており、場合によっては、個人が自分で情報収集したほうが新聞よりも早く情報を手に入れられる時もある。

 

そして、重要なのはそうしたツールを通じて得た情報を批判的に吟味できるかどうかである。私が前回の記事で文部科学省や教育機関の怠慢として批判したかった点は、この知的営為を学校で教えてこなかった点である。そうした怠慢の結果が、選挙において如実に表れていると思う。例えば、2005年の衆議院議員総選挙において、自民党郵政民営化を単一争点として選挙に臨んだ。結果として、自民党は多数の議席を確保し、郵政民営化を断行した。しかし、その時、多くの有権者はどの程度郵政民営化について理解していただろうか。民営化によって市場経済に対応しなければならなくなるのだから、採算の合わない僻地の住民の生活がどうなるのか、当の本人たちは考えたのだろうか。

 

こうした知的態度を持つ人は、ニュースのコメント欄やネットの掲示板、またSNSなどで散見できる。しかし、大規模な社会的事象の結果から大多数の人間がどのような態度をもっているか類推することもできる。その点、柳田の期待した「一人前の選挙民」はまだ有権者の多数派とはなっていないようだ。放置されてきた有権者の質を高めることこそが、教育界に課せられた使命である。

柳田の理想と教育界のサボタージュ

民俗学者柳田国男は、戦後に新設された社会科の目標を「一人前の選挙民をつくること」とした(西内裕一「『柳田社会科』の目標と内容についての考察」)。

ここでいう一人前とは、手紙が書ける程度の平凡な能力、そして新聞が読め、世間の動向を把握できることのできる人間である。その中でも柳田が特に重視したのは、新聞を批判的に読むことのできる能力である。したがって、社会科の目標の一つは、当然新聞に書いてある事象を批判する価値尺度を内在化した人間を作ることが目標となる。柳田はこうした能力を義務教育終了までに身につけさせるべきだと考えた。

 

上記のうちの新聞を批判的に読むということを、現代的に解釈すれば、新聞だけでなく、テレビのニュースやインターネット上のニュースサイトも含むだろう。私はニュースを考える最高のツールは新聞だと思うので、ここでは新聞にのみ焦点を当てて考えてみたい。

 

柳田が上記のことを述べてから50年以上が経過している。しかし、周りを見渡してみると、新聞を批判的に読むことはおろか、新聞を読むことすら放棄している学生が非常に多いようだ。マイナビの調査によれば、大学生の新聞離れは著しいようだ(https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/38012)。こうした状況から鑑みるに、柳田のいう一人前の選挙民は少なくとも義務教育終了段階では達成されていない。

 

思うに、それは新聞の読み方や「批判的な」読み方を学校で教わっていないことに起因している。すなわち、教育業界が「サボって」きたのだ。そのサボりの蓄積は、日々のニュースを批判的に考えることはおろか、理解しようともしない脱政治的な態度をもつ人々を生み出してしまったのだろう。50年以上さぼってきたツケは功を奏し、投票に棄権する人々を大量に生み出している。半人前の選挙民を多く生み出してきた教育界の罪は重い。