Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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1つのEU、2つの立場~モラルジレンマをどう乗り越える?~

 

 

その写真は世界を動かした

衝撃的な写真が世界中を駆け巡った。

浜辺に横たわるシリア人男児の遺体写真である。男児の名はアイラン・クルディくん。

ヨーロッパを目指してシリアから渡航している途中に、乗っていたボートが転覆してしまった。そして母親と兄と共に無残な姿で浜辺に打ち上げられた。

生存の保障を求め、ヨーロッパという希望へ向かった彼らの悲痛な姿は、欧州を始め世界中の「人道的な」人々の共感を呼んだ。

外向きな人々

そうした人々の共感はやがて怒りに変わった。その矛先は、難民受け入れに消極的な欧州の首脳陣へを向けられた。

難民受け入れの世論の高まりを受けて、受け入れに消極的だった英国のキャメロン首相は、その姿勢を変えざるをえなかった。ただし、難民は受け入れるものの「孤児」に限るという。また、フランスは2万人規模で難民を受け入れると表明した。

難民の主要な目的地であるドイツは80万人の難民の受け入れが可能であると表明した。しかし、これでは難民の受け入れ先が偏っていると思う。

内向きな人々

ドイツのメルケル首相は、EU公平に難民を受け入れるべきとの提案を行った。これに対して、ハンガリールーマニアなどの東欧諸国は猛反発している。

それには2つの理由がある。

1つ目は、「移動の自由」を掲げるEUでは、難民を分担して受け入れても結局、難民保護の手厚いドイツを目指してしまうのだ。

2つ目は、難民の大半がイスラム教徒であり、自国内にはモスクなどがなく、彼らを受け入れる土壌がないという理由だ。つまり難民は「自国文化に対する脅威」であるという文化的な理由である。

価値観の対立

このように、EU域内では難民問題を巡って意見の対立が先鋭化している。

それは難民を「かわいそうな」人々と認識する人道主義的な価値観と、難民は「文化の脅威」とするナショナリズム的な価値観の対立である。
アイラン・クルディくんの死は確かに人々の姿勢を変えた。しかし、その変化は人道主義的な「見方」を持っている人々のみに起こったものである。

難民を「自国文化の脅威」と「見る」東欧諸国の人にとって、彼の死は「一人の外国人が死んだ」という事実でしかない。

現実的な対処を

しかし、現実的にはEU「受け入れた移民」をどう対処するのか、という段階にある。

難民問題に関するEUの決定は、それが「見せかけの」連合であるのか、はたまた困難を共に分かち合う仲間なのかということを世界に知らしめることとなる。あるいは、結局人間は分かち合うことができないのか、という諦念を改めて確認することになってしまうのだろうか。

追記(2018年7月28日)

難民問題に関して、ハンガリーでは国内法を理由に受け入れを拒否している。またドイツも受け入れ枠の削減を決めた。

どちらも内政問題に端を発しており、EU諸国でも影響力の強い国々が「自国文化の脅威」として難民をとらえたことの証左であろう。1つのEUを掲げるEUですら、各国内の事情としては内向きになっている(内政の重視)。いわんや世界をや、である。

民主主義と有権者の態度~アメリカ大統領選挙から考える有権者のあり方

アメリカ大統領選挙が始まった。最新の世論調査によれば、共和党候補の中でドナルド・トランプ氏がトップを独走しているようだ。

 

 

トランプがどうして一位に?

思うに、トランプがトップを独走している大きな理由はその発言の歯切れの良さだろう。

たとえば、つぎのような発言は短いフレーズで耳障りの良いものだ。

「米国を再び偉大な国にしよう(Make America Great Again!)」

日米安保条約は不公平だ」

「(増え続けるメキシコからの不法移民対策に)南部の(メキシコ)国境に『万里の長城』を築く」 

そうした「強気な」発言は、有権者に何らかの期待をもたらすのだろう。その期待は「トランプ氏はきっと今の政治に変化をもたらしてくれるだろう」といった類のものである。

 

政治にイライラする理由

政治はしばしば閉塞感を伴う。というのは、政治とは利害の調整であり、それには多大な時間を要するからだ。

特に議会と大統領の権力が衝突するアメリカでは、予算案などを巡って政権と議会がよく対立を起こす。

あちらを立てれば、こちらが立たずというのが政治なのだ。そうした決められない政治に対して有権者は不満を蓄積するのだろう。優柔不断な人にイライラしてしまうのと似ているかもしれない(笑)

停滞した政治に飽き飽きした有権者にとって、はっきりとした物言いのトランプ氏は現状に変化をもたらしてくれる期待(錯覚?)を抱かせる。

 

歯切れはいい。でもそれってほんとのこと?

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かし、そうした「なんとなく」の支持はトランプが政治的な争点を単純化しているからこそ可能な代物である。

たとえば…「日米安保条約は不公平だ」

たしかに日米安保は共同して戦闘を行うという点ではアメリカにとって不公平だ。しかし、その代わりに日本は多くの敷地や資金を米軍基地のために提供している。

横田基地の上空は日本の航空機は通ることができず、そのため上空を通らないように迂回しなければならない。

共同戦線「以外」に目を向ければ、日本側も負担をしているのだ。

 

たとえば…不法移民対策

メキシコとの国境に壁を築くといった発言も問題だ。こうした不法移民に対する対処療法的な提案は、まさに問題の単純化だといえる。

というのも、メキシコからアメリカに流入する不法移民の遠因はアメリカにないとも言えないからだ。問題はNAFTA北米自由貿易協定)の成立に遡る。

1994年、NAFTAが成立した。それによって、貿易の自由化が進み、安いアメリカ産のとうもろこしがメキシコに大量に流入した。

メキシコでは多くのとうもろこし農家が職を失い、その結果、職を求めて、多くの失業者がアメリカに移住した。移民問題の一因はアメリカにもあるのだ。

この顛末を自由貿易を推進した結果と言ったら、トランプの支持層である自由貿易による被害者たち(?)を擁護することはできない。

※トランプの支持層はラストベルトといった、かつて鉄鋼業などが盛んだった地域に多くいる。その地域の労働者は中国などの新興国アメリカ国内よりも安く鉄鋼を作るようになったため、仕事を失ってしまったのだ。だから、彼らはグローバリズムを敵視し、保護主義を主張する。

そうしたアメリカの「責任」を隠蔽し、移民は自分たちに害をもたらす「悪」だという単純化がトランプ氏の選挙手法の一つである。

 

わかりやすさと複雑さのバランス

政治は複雑である。だから、分かりやすさは争点を理解する上で重要だろう。

しかし、分かりやすさが「単純化」と同義となってはならない。争点の背後にある問題を隠蔽し、有権者が広い視野を持って思考する機会を奪ってしまうからだ。

それは有権者にとって楽だろうが、結果的に民主主義の弱体化に繋がってしまう。

問題を理解するの上で単純化は有効だ。しかし、現実がそのまま単純なわけではないことを忘れてはいけない。

 

さあどうなることやら

トランプ氏がこのままトップを走り続けるのか。それとも、その手法は限界を迎えるのか。

民主主義の伝統を持つアメリカの有権者が「思慮深く」なることを願ってやまない。

国民国家の限界

ヨーロッパに大挙して押し寄せてきている人々がいる。彼らは、中東や北アフリカなどの地域からの難民である。そして、彼らの目的地は、ヨーロッパの盟主ドイツである。そのあまりの移民の多さに、メルケル首相は「EUで難民の負担を共有すべき」旨の発表を行った。盟主ドイツをはじめとして、フランス、英国を含めた先進三国はEUの難民基準に該当しない難民を強制送還する考えを示している。

 難民の地位に関する条約(いわゆる難民条約)によれば、難民とは「人種、宗教、国籍、若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者又は望まない者」と定義されている。

 難民も元をたどれば、どこかの国の国民である。いかなる個人もどこかの国民としてこの世に生を受ける。つまり、個人と国家は不可分の関係にある。つまり、人は国家という枠組みの中で暮らしている。また、国家の第一義的な役割は国民の保護である。国家は、目に見えない境界線の内側で暮らす人を保護する役割を持ち、その外側にいる人々を保護する役割は持たない。

 国家が破たん状態に陥ったり、それを失ったりした人々はどこかの国家に受け入れてもらわなければならない。そうした状態で国境を一歩でも出れば、彼らは「国民」ではなく、「漂流難民」とみなされる。そこでは彼らは「よそ者」として生きなければならない。なぜなら、文化や言語を共有する「同胞」からすれば、文化も言語も共有していない彼らは「よくわからない」人々だからだ。

 受け入れた国民は、難民という「よそ者」と同じ空間で暮らさなければならず、一方で難民はその国の文化や言語を学ぼうともしないという状況が生まれやすい。というのも、着の身着のままやってきた難民にそんなことをする余裕はないからだ。彼らの生活を自分たちの税金で支えている中で、その国に暮らす国民は難民に対して不快感を覚えるかもしれない。その不快感は敵意となって難民の排斥につながるのだと思う。

近代以降、国民国家という枠組みが誕生し、現代においてもそれは支配的な枠組みとなっている。国家が破綻状態に陥り、難民が誕生するという事態が生じても、従来の国家という枠組みの中で、我々は考え行動している。難民問題は国民国家という枠組みの限界を象徴しているのではないだろうか。

権力を支える自覚

 

 

ある意味、高校の時は浮いていた

高校生の時から、僕の周りで政治に関心を抱く人は、ほとんどいなかったように思う。

大学生の時、友人との会話で政治の話題を出した時には、相手の顔がたちまち曇っていったのを覚えている。

「どうせ投票したって、何も変わりはしないから話すだけ無駄だよ^ ^」

友人の言葉が今でも忘れられない。それ以降、僕は友達と政治について話さなくなった。とても個人的な経験談ではあるが、僕の友人のような考えを持っている人は多いんじゃないかと思う。

近年における投票率の低下という現象は、政治にあきらめを抱いた人が多いことを表しているのだろう。なんといっても身近にいたのだから。

自覚がないままの支持者

理屈で考えれば、政権、すなわち権力者を支えているのは、現状の体制に満足して行動しない「わたしたち」だ。

というのは、現状の体制内である程度の利益を享受できるからだ。なにか行動をしなくても「わたしたち」は生活していける。

ただし、もし「わたしたち」が現状の体制に不満を抱いて行動すれば 、今の体制は崩壊 する。

長く権力の源泉とされてきた軍隊や警察などの「暴力装置」ですら、時に政権に反旗を翻すこともありうる。

2011年のエジプト革命では、反政府デモに対して、兵士たちが発砲するどころか、デモに加わる映像が流れ、世界中が衝撃を受けた。

このように、「わたしたち」は権力を支える側に立つことも逆に権力を覆すこともできる。

暴力装置…軍隊や警察といった武力をもつ集団のこと

支持・不支持に自覚的に向き合うこと

だからこそ、政治は政治家に任せきりでいればよい、という態度ではいけないと思う。

というのも、ある社会の権力を支えるのも壊すのも、その社会に暮らす「わたしたち」である。

その意味で「わたしたち」こそが最高の権力者なのだ。だから、自分たちが権力の「当事者」である意識を持って政治と向き合うべきだと僕は思う。

どう向き合うか -手段は選挙だけじゃない-

では、実際にどのように向き合うべきだろうか。

「わたしたち」は民主主義社会に暮している。しかし民主主義社会だからといって、すべての 人々の「民意」を測ることは不可能だ。

というのは、多様な価値観を持っている人々が存在し、それを一つにまとめ上げることは原理的にも技術的にも不可能だからである。

だからこそ、選挙だけではなく、デモ世論直接投票政治家との討論会などのさまざまな機会を通じて、自分の意見を表明することが重要である。

『政治的思考』の著者である杉田敦氏が,「人々の声を伝える回路は様々な形であったほうがいい」と述べているように、民主主義社会にはさまざまな伝達手段が用意されている。

ちなみにここで言う回路というのは、「政治への向き合い方」ということだ。

大切なことは関心を持つこと

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政治を諦めを抱いて、無関心になってしまう人は多い。けれども、声を上げなければ、自分の意見が反映されることはない。

その結果、政治は自分から遠ざかってします。そうすれば、諦めが広がり、ますます無関心になってしまう悪循環を引き起こす。

重要なことは、政治に関わる当事者としての意識を持ち 、政治へのいろいろな回路が用意されている中で、政治と向き合う事だと思う。

たしかに自分の好きなことだけしているのは楽しい。だけれども僕らは社会の一員でもある。自分の殻にこもるのは巡り巡って自分のリスクになって返ってくる。

だからこそ、自分が問題に感じていることを世の中に発信してみよう。あるいは誰かに聞いてもらおう。

政治は社会の問題を解決することだ。自分の思いを世に伝えれば、それは社会の問題になるかもしれない。

まずは声をあげることから始めよう。