Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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社会主義という宗教

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教やキリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 三大宗教について

イスラム

イスラム教はアラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 キリスト教

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 仏教

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 宗教の機能

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 社会主義:現代における新たな宗教か

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。

「普遍的な」人権思想、ヨーロッパで生まれた人権思想

今年は国際人権規約が採択されてから50年になる。なぜかは分からないが、「人権」という言葉を聞くたびに不思議な違和感に襲われる。今日はその人権について考えてみたい。
朕は国家なり」というルイ14世の言葉に現れているように、中世末期のフランスでは王に権力が集中していた。王が権力を独占するという背景には、王権神授説という思想的基盤があった。王権神授説とは、王の権力の正統性は、神が王に権力を授けたことに由来する、という思想である。つまり、中世末期のフランス社会では神を論理の前提に持ち込むほど、キリスト教の影響力が強かった。
やがて、市民革命を経て、権力主体は王から国民へと変わる。その際に援用されたのが、ロックやルソーの社会契約説であった。これは、自然権を持つ各個人が契約によって、社会を作り出すという思想であり、革命後に制定された憲法では、人民主権という形で規定されることとなった。
国民が権力の源泉である正当性はどこにあるのだろうか。社会契約説では、各人が自然権を持つとされている。自然権とは、人が生まれながらにして有する権利であり、具体的には生命・自由・財産などの権利を指す。
王権神授説では王が政治を行う権利を有するのは神に由来していた。その一方で、社会契約説では個々人が自然権という権利を有することを謳っている。これは神が王ではなく個人に権力を付与するということを意味している。例えば、アメリカ独立宣言では、“Men are created equal”と明記されている。これは神が人々を平等に創った(create)から各個人に自然権があるという理屈である。つまり、神が権力を与える主体なのであって、その客体が王から人々に代わっただけなのだ。
しかし、自然権が人々の考え方として普及するだけでは人権理念は絵に描いた餅のままである。人民一人一人が武器をとって王政を打倒した事実が、自然権というフィクションに正当性を与えたのである。
自然権思想はやがて基本的人権という形になっていく。それは、アメリカ合衆国憲法やフランス憲法、そして西洋から大きく離れたここ日本でも、憲法に明確に規定されている。
しかし、基本的人権の成立過程では、キリスト教の影響があった。つまり、基本的人権の考え方はヨーロッパの文化的要素を含んでいるのだ。従って、他文化との摩擦は不可避である。対立とまでいかずとも、制度としての基本的人権と社会におけるその在り方はいつか齟齬をきたす可能性がある。
すなわち、社会契約説が社会の在り方を決めているヨーロッパと、天皇制を掲げる日本では文化的社会的構造が大きく異なる。そうした違いを考慮せずに、単に人権の理念を受け入れるだけでは、摩擦が起きるのは当然であろう。
人権が人々に普及するには、市民一人一人が王政を妥当するという事実が必要であった。現在、人権思想は世界大に拡大していき、多くの人々に受容されている。しかし、それはヨーロッパの歴史的文脈の中で生まれた概念であり、また人々が自ら獲得したという歴史的背景がある。したがって、第二次大戦後に人権が上から降ってきた日本社会とはまったく事情が異なる。努力して獲得せずに上から与えられたという背景があるために、人々が人権を当たり前のものとして受け取っているのだ。だから、その在り方を巡る齟齬が今になって生じているのだと思う。違和感の正体はこのような理念と実態の乖離にあるんだろうか。

新しいアメリカンドリーム

 

 

人は夢を見る。夢は、多くの人を魅了する。1867年のロンドンでマルクスは『資本論』を発表し、それ以降、彼の思想は世界中の人を魅了していった。そして、現在でもなお、大西洋を隔てたアメリカにおいて、マルクス主義から発展した社会主義を掲げる人物が人々を魅了している。バーニー・サンダース氏である。

 

資本主義が国是の国で社会主義者が登場した異様さ

不思議なことに、資本主義が高度に発達したアメリカにおいて社会主義を掲げる人物が人々から一定の支持を受けているのだ。20世紀半ばに赤狩りの名目で多くの共産主義者が公職から追放されたことを鑑みると隔世の感がある。

なぜサンダースが支持を得ているかといえば、アメリカでは深刻な格差が社会問題になっているからだ。一部の富裕層と貧困層との間の所得格差はすさまじく、特に若者は不況の中で失業や学費ローンの支払い等に苦しんでいる。そうした中で財産の分配を通じて平等な社会を目指す社会主義が脚光を浴びているのである。

 

アメリカンドリーム=資本主義での成功

そもそも資本主義とは何だろうか。資本主義は資本が自己増殖するシステムのことだ。資本とは簡単に言えばカネであり、資本主義とは、カネを投資することでさらにカネを増やそうという仕組みのことである。

その前提には、私的財産の所有という大原則がある。つまり、自らが労働という努力で勝ち得たものは、資本という形で自らのものになる。だからこそ、資本主義体制においては誰しもが努力すれば富を得ることができるという前提がある。これこそがアメリカンドリームの正体であり、かつて多くの人がこの夢を見て、アメリカに移住してきたのであった。

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夢の裏側にあるものは…

しかし、現実には財産は子や孫へ受け継がれていき、一部の層が独占したまま経済的な格差が固定化してしまう。そうした社会的な要因に加えて政治的な要因も格差の固定化を助長する。アメリカでは、政党による代議士への拘束がないため、議員立法が盛んである。そのため、個人が代議士などに直接働きかけるロビイング活動も活発に行われている。富裕層はロビイストを雇い、政治過程に影響力を行使することで、税制面での優遇や公共投資など自らに有利な立法を促す。こうして持てるものと持たざる者との間の格差はますます拡大化し、固定化していくのだ。夢はその前提条件が保持されない限り、単なる妄想と化してしまうのである。

 

新しい夢を求める人々

格差の固定化によって、誰しもが努力すれば富を得ることができるという資本主義の夢は崩壊してしまった。つまり、建前と実態で大きな矛盾が生じているのだ。サンダース氏が支持を受けているという「本来ならばあり得なかった」現象は、社会主義という新しいアメリカンドリームを見る人が増えていることを意味している。

 

夢は見ている間はさも現実かのように見える。その点で資本主義も社会主義も変わりはない。問題はどちらが自分にとって都合がいいかである。資本主義が一定の人から支持されている一方で、不支持も広がっている。大統領選挙を見ていて、そんなことを考えた。 

立法とは何か

イギリス人民は、選挙中は自由だが、選挙が終われば忽ち奴隷となるという言葉をルソーは残している。この言葉は今の我々の議会制民主主義を考える上で大きな示唆を含んでいる。今日は議会の主な役割である立法機能について、日本の「国会」を例に考えてみたい。

 

日本国憲法41条に拠れば、国会は「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」であるとして、国会に立法機関としての地位が与えられている。では、そもそも立法とは何だろうか。

 

立法とは、法律を制定する国家作用を意味する。この場合の法律は、国民全体に関わるあらゆる事項のルールを定めたものである。つまり、不特定多数の人びとに対して、不特定多数の事柄や事件に適用される一般的抽象的な法規範を指す。立法とは、このような一般的抽象的な法規範を制定する国家作用なのだ。

 

ここからルソーの主張を引き出せる。すなわち、ルソーは、立法過程にはあらゆる人が関わらなければならないと述べているが、その意味するところは、法律は政治単位内のあらゆる人に関わるのだから、その制定過程を誰かが代表することはできないということである。だから、政治単位内のあらゆる人の参加が必要なのだと主張している。

 

しかし、近代の国民国家の登場以降、国家という政治単位内の全員が立法過程に直接参加するのは現実的には困難である。したがって、民主主義を掲げる国家は、選挙という形で「全員が立法に関われる」ような制度設計を行った。つまり、全員が立法に関わっているというフィクションを作り上げたのである。

 

フィクション化したのに、代表されている感がないから、投票率が低下した。にもかかわらず18歳に選挙権を拡大したところで、最初はともかく、まもなく投票率は再び低下するだろう。解決策は代表されている感をしっかり出して再びフィクションを信じさせることの他にはない。そして、そうしないと議会制民主主義が成り立たない。

なぜ自律的である必要があるのか-教育目標としての自律-

 

 

中学校学習指導要領の道徳では、その内容として自律性を養うことが項目の一つに掲げられている。道徳における自律性の必要性とは何なのかを今回は考えていきたい。

なぜ自律的である必要があるのか

自律性とは

自律性とは、自らが立てた規範に従って行動することである。つまり、他人から言われたままに行動するのではなく、自分で考えたルールに基づいて行動するさまである。

例を挙げるならば、電車の中で優先席だから席を譲るのではなく、けがなど体に支障をきたしている人や老人、妊婦に対して、余裕のある人が席を譲るという行動原理のことであろう。

自律性が求められる背景はなんなのか

自律性が求められる背景には、価値観の多様化という社会的状況がある。つまり、一人一人の考え方が多様化したことで、多くの人にとって共通している価値観が影響力を喪失した社会である。

たとえば、かつては年上を敬うという朱子学的な価値観などが多数の人間にとって常識であったが、今では必ずしもそうした価値観があらゆる世代で共有されているわけではない。

なぜ価値観が多様化したのか

価値観が多様化した理由は、共同体の崩壊それに伴う個人主義の進展にある。

共同体とは地域的なつながりである。そこでは自分たちのことは自分で賄うという自治的な空気がある。それゆえ、共同体では協力が不可欠となり、内部で分裂することは避けるべきだとされ、何らかの規範が共有される。こうした中で育てば周りの人間と似たような同質的な人間集団が形成されていく。
しかし、インターネットの発達や都市化の進展などに伴って、協力せずとも「一人」で生きていけるようになった。そして、地域の人びととのつながりを持たない人が増え、共同体が崩壊した結果、共通の規範も消失したのである。

共通の規範がないとどうなるか

このように共通の規範がない状況では、行動を起こす際に迷いがどうしても生じてしまう。例を出せば、ある行為をしたときに謝るべきなのかどうか、生徒が問題行動をした場合にそれを叱るのかどうか、というように生活におけるあらゆる場面で迷いが生じうるのだ。究極的には、どうしていいかわからずにパニックに陥る可能性すらある。

だからこそ、自律性が求められているのだ。つまり、自らが考えた抽象的な行動規範に従うことで、行為の際の指針を得ることができる。それに従えば、いろいろな状況に対応することが可能となる。

たとえば、余裕のあるものは困っている人に手を伸べるという規範を立てたとしよう。道で困っている人がいたら、周りの人が素通りしても、声をかけるだろうし、電車など他の場でもそうするだろう。

自律性を養う教育とはなんだろうか

自律性を養う教育の目標は、生徒が自らの行動原理を持つことである。その評価方法として、たとえば授業でロールプレイングを導入して意思決定をさせたり、価値観を提示して選ばせたり、といったことができるだろう。

価値観や行動原理というのは、すでに生育過程で習得しているかもしれない。経験則に基づいて行動する生徒にはこれが当てはまるだろう。一方で、何事も迷ってしまう生徒にはそもそも行動原理がない。

前者のような生徒には、自らの行動原理を言語化して認識することが効果的であり、後者のような生徒には、どのような価値観があるかをインプットし、その価値観の中から自分の感覚に近いものを選択してもらい、その後その軸に則って行動をするよう促すのが有効だろう。どちらの生徒にも行動原理を意識化し、次第に自動化するまで教師が手助けするのだ。

こうした教育活動を通じて確固たる行動原理を生徒に身につけてもらいたい。その前提として常に生徒を見て、活動に対するフィードバックを与え、入念な準備が必要なのは言うまでもない。

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生徒に自律性を養う以前に、教える教師が自律的でなければならない。

その場しのぎの回答ではなく、自らの行動規範に則り、自律的であるよう努めたい。また、教師としても、自律性を養う教育とはどのようなものか追及していきたい。

歴史を教えるということ

 

 

歴史教育をする意義について考えた

そもそも歴史とはなんだろうか

教師が学校で歴史を教えるということはどのようであるべきなのだろうか。というよりも、そもそも歴史とは何なのだろうか。

それを考えると、一般的に歴史とは「過去から現在までの変化の様子を記録したもの」である。つまり、歴史とは社会や文化、思想から地形までの、ありとあらゆる人間の営為の変遷を記したものなのである。

そして、現代は過去の事象の積み重ねの上に成り立っており、歴史とはその堆積していく様子を記録したものに他ならない。

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歴史の最前線にある現代

とすると、現代というのは、歴史の最先端にあるということである。そこで営まれている行為は、やがては歴史として記述される運命にある。

実際、社会は一人一人の個人の集合体であり、個人が作り上げていきながら、その集合体としての全体が変化していく。つまり、個人の態度次第で社会の方向性に大きな影響を与えることになる。

それゆえ、今現在の生き方や未来への展望を描く際には、最初に自分自身、言い換えれば自分の生きる現代を無批判で受け入れることなしに、冷静に検討することが必要になってくるのである。

たとえたった一人の些細な選択であろうとも、それが集合体となれば未来の社会へ及ぼす影響は甚大になる。考えなしに意思決定してしまえば、とんでもない事態を招くかもしれないのだ。

比較という視点:検討をするための土台

そうした検討を可能ならしめるものは、比較という視点である。すなわち、現代と並列して存在し、比較検討する現代とは別の時代が必要となる

その「別の時代」は複数あったほうがよく、また空間的にも広がりを見せたほうがよい。すなわち、日本史だけでなく世界史をも学ぶ必要性がここに出てくるのである。

だから、歴史を学ぶことの意義というのは、その比較検討の材料を多く手に入れるというところにある。私たちや私たちの世界を絶対化することなく相対化していく視点を育むために、歴史を学ぶ必要があるのだ。

現代において「常識」とされていることを疑い、社会をより良い方向に変化させていく考察を可能とさせることが、歴史教育の果たす役割である。

必須の教養教育としての歴史教育

だから、社会の構成員の一人にとって、こうした歴史的知識はかくて必須の教養なのである

しかし、実際の教育現場では歴史は単なる受験科目や暗記科目になり下がっているようだ。従って、教師は児童・生徒が現代を相対化する視座を養うきっかけを提起していくようにしなければならない。

教師は歴史を単なる過去の事象ではなく、それが変化して現代社会の基盤となっていることを伝えていかなければならない。

また、過去と現代の事象を比較することで、「今」を考えるきっかけを与えなければならない。歴史を教えるということは、現代と過去を不断に往復するきっかけを児童・生徒に与え、現代を考えさせることなのだ。

具体的にはどのような歴史教育を行っていくべきなのか

ここまで概観したのは、社会の歴史についての考察であった。しかし、歴史が事象の積み重ねを記録したものだとすれば、日記は個人の歴史だし、学級日誌は学級の歴史を記したものとなる。至る所に歴史は潜んでいるのだ。重要なことはそれらを材料として比較検討し、意思決定の際に活用することである。みずからがどのような進路へ行くべきか、方向性を決めるのは先人の経験を比較することだろう。集団の意思決定であれば、集団の歴史をさかのぼればよい。

現代の課題を提示し、かつての類似した解決済みの事例をいくつか提示し、それらを比較検討することで、どのように解決するかアイデアを出させたい。

上記の授業例を、ブルームのタキソノミーに則って分析すれば、

事例の理解、課題の分析、解決策の統合

という段階を踏まえることがわかる。かなり高度ではあることに留意したい。

 

あらゆるところにある「空気」

電車内での出来事である。私の近くに親子4人が座っていた。その内の1、2歳くらいの男の子が泣いていて、親がなだめても泣き止まない。思わずそちらに目を向けると、母親と目があった。気まずい。しかし、うるさいものはうるさい。だがいよいよ耐え切れず、視線を反対方向へ向けると、この車両に乗っているほとんどの人が親子の方に顔を向けていた。中には眉間にしわを寄せ、不快感を顕にしている人もいた。


不思議だと感じた。誰ひとり彼らに注意しないのに、嫌悪感はむき剥き出しにしているのである。無言の注意であろうか。まさにこれが「空気」や「同調圧力」と呼ばれる状態なのだろう。そうした車内の空気には、「迷惑だから、泣いている子供をなだめろ」というメッセージが込められており、それに則って親子は行動していたといえる。だから、誰一人として具体的な「声」を上げなかったのである。

だが、もし親子が空気を読まなかったらどうなっただろうか。つまり、泣いている子供を放置していたらどうなったか、ということである。おそらく、誰か注意する人が出てきただろう。あるいはTwitterなどのSNSに「泣いている子供を放置する親、ありえない」などと書き込まれたかもしれない。それが拡散されれば、「日本人の民度が下がった」「母親失格」などという書き込みがなされるかもしれない。


このように、空気に則った行動をしなければ、レベルの差こそあれ制裁が加えられる。ただし、空気が醸成されるには、そこにいる人たちの間である価値観が共有されていることが前提となる。今回は「子供が泣いていたら迷惑なので、なだめるのは当然」という価値観が車内のほとんどの人に共有されていたのだろう。


「空気」はある程度の間柄で醸成されると思っていたが、そんなことはなかった。今回の例のように見知らぬ人との間にも空気はあったのだ。ただし、それはあくまでも「日本人」という間柄に限った話である。些細なところから日本文化が垣間見えた。

1つのEU、2つの立場~モラルジレンマをどう乗り越える?~

 

 

その写真は世界を動かした

衝撃的な写真が世界中を駆け巡った。

浜辺に横たわるシリア人男児の遺体写真である。男児の名はアイラン・クルディくん。

ヨーロッパを目指してシリアから渡航している途中に、乗っていたボートが転覆してしまった。そして母親と兄と共に無残な姿で浜辺に打ち上げられた。

生存の保障を求め、ヨーロッパという希望へ向かった彼らの悲痛な姿は、欧州を始め世界中の「人道的な」人々の共感を呼んだ。

外向きな人々

そうした人々の共感はやがて怒りに変わった。その矛先は、難民受け入れに消極的な欧州の首脳陣へを向けられた。

難民受け入れの世論の高まりを受けて、受け入れに消極的だった英国のキャメロン首相は、その姿勢を変えざるをえなかった。ただし、難民は受け入れるものの「孤児」に限るという。また、フランスは2万人規模で難民を受け入れると表明した。

難民の主要な目的地であるドイツは80万人の難民の受け入れが可能であると表明した。しかし、これでは難民の受け入れ先が偏っていると思う。

内向きな人々

ドイツのメルケル首相は、EU公平に難民を受け入れるべきとの提案を行った。これに対して、ハンガリールーマニアなどの東欧諸国は猛反発している。

それには2つの理由がある。

1つ目は、「移動の自由」を掲げるEUでは、難民を分担して受け入れても結局、難民保護の手厚いドイツを目指してしまうのだ。

2つ目は、難民の大半がイスラム教徒であり、自国内にはモスクなどがなく、彼らを受け入れる土壌がないという理由だ。つまり難民は「自国文化に対する脅威」であるという文化的な理由である。

価値観の対立

このように、EU域内では難民問題を巡って意見の対立が先鋭化している。

それは難民を「かわいそうな」人々と認識する人道主義的な価値観と、難民は「文化の脅威」とするナショナリズム的な価値観の対立である。
アイラン・クルディくんの死は確かに人々の姿勢を変えた。しかし、その変化は人道主義的な「見方」を持っている人々のみに起こったものである。

難民を「自国文化の脅威」と「見る」東欧諸国の人にとって、彼の死は「一人の外国人が死んだ」という事実でしかない。

現実的な対処を

しかし、現実的にはEU「受け入れた移民」をどう対処するのか、という段階にある。

難民問題に関するEUの決定は、それが「見せかけの」連合であるのか、はたまた困難を共に分かち合う仲間なのかということを世界に知らしめることとなる。あるいは、結局人間は分かち合うことができないのか、という諦念を改めて確認することになってしまうのだろうか。

追記(2018年7月28日)

難民問題に関して、ハンガリーでは国内法を理由に受け入れを拒否している。またドイツも受け入れ枠の削減を決めた。

どちらも内政問題に端を発しており、EU諸国でも影響力の強い国々が「自国文化の脅威」として難民をとらえたことの証左であろう。1つのEUを掲げるEUですら、各国内の事情としては内向きになっている(内政の重視)。いわんや世界をや、である。

民主主義と有権者の態度~アメリカ大統領選挙から考える有権者のあり方

アメリカ大統領選挙が始まった。最新の世論調査によれば、共和党候補の中でドナルド・トランプ氏がトップを独走しているようだ。

 

 

トランプがどうして一位に?

思うに、トランプがトップを独走している大きな理由はその発言の歯切れの良さだろう。

たとえば、つぎのような発言は短いフレーズで耳障りの良いものだ。

「米国を再び偉大な国にしよう(Make America Great Again!)」

日米安保条約は不公平だ」

「(増え続けるメキシコからの不法移民対策に)南部の(メキシコ)国境に『万里の長城』を築く」 

そうした「強気な」発言は、有権者に何らかの期待をもたらすのだろう。その期待は「トランプ氏はきっと今の政治に変化をもたらしてくれるだろう」といった類のものである。

 

政治にイライラする理由

政治はしばしば閉塞感を伴う。というのは、政治とは利害の調整であり、それには多大な時間を要するからだ。

特に議会と大統領の権力が衝突するアメリカでは、予算案などを巡って政権と議会がよく対立を起こす。

あちらを立てれば、こちらが立たずというのが政治なのだ。そうした決められない政治に対して有権者は不満を蓄積するのだろう。優柔不断な人にイライラしてしまうのと似ているかもしれない(笑)

停滞した政治に飽き飽きした有権者にとって、はっきりとした物言いのトランプ氏は現状に変化をもたらしてくれる期待(錯覚?)を抱かせる。

 

歯切れはいい。でもそれってほんとのこと?

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かし、そうした「なんとなく」の支持はトランプが政治的な争点を単純化しているからこそ可能な代物である。

たとえば…「日米安保条約は不公平だ」

たしかに日米安保は共同して戦闘を行うという点ではアメリカにとって不公平だ。しかし、その代わりに日本は多くの敷地や資金を米軍基地のために提供している。

横田基地の上空は日本の航空機は通ることができず、そのため上空を通らないように迂回しなければならない。

共同戦線「以外」に目を向ければ、日本側も負担をしているのだ。

 

たとえば…不法移民対策

メキシコとの国境に壁を築くといった発言も問題だ。こうした不法移民に対する対処療法的な提案は、まさに問題の単純化だといえる。

というのも、メキシコからアメリカに流入する不法移民の遠因はアメリカにないとも言えないからだ。問題はNAFTA北米自由貿易協定)の成立に遡る。

1994年、NAFTAが成立した。それによって、貿易の自由化が進み、安いアメリカ産のとうもろこしがメキシコに大量に流入した。

メキシコでは多くのとうもろこし農家が職を失い、その結果、職を求めて、多くの失業者がアメリカに移住した。移民問題の一因はアメリカにもあるのだ。

この顛末を自由貿易を推進した結果と言ったら、トランプの支持層である自由貿易による被害者たち(?)を擁護することはできない。

※トランプの支持層はラストベルトといった、かつて鉄鋼業などが盛んだった地域に多くいる。その地域の労働者は中国などの新興国アメリカ国内よりも安く鉄鋼を作るようになったため、仕事を失ってしまったのだ。だから、彼らはグローバリズムを敵視し、保護主義を主張する。

そうしたアメリカの「責任」を隠蔽し、移民は自分たちに害をもたらす「悪」だという単純化がトランプ氏の選挙手法の一つである。

 

わかりやすさと複雑さのバランス

政治は複雑である。だから、分かりやすさは争点を理解する上で重要だろう。

しかし、分かりやすさが「単純化」と同義となってはならない。争点の背後にある問題を隠蔽し、有権者が広い視野を持って思考する機会を奪ってしまうからだ。

それは有権者にとって楽だろうが、結果的に民主主義の弱体化に繋がってしまう。

問題を理解するの上で単純化は有効だ。しかし、現実がそのまま単純なわけではないことを忘れてはいけない。

 

さあどうなることやら

トランプ氏がこのままトップを走り続けるのか。それとも、その手法は限界を迎えるのか。

民主主義の伝統を持つアメリカの有権者が「思慮深く」なることを願ってやまない。

国民国家の限界

ヨーロッパに大挙して押し寄せてきている人々がいる。彼らは、中東や北アフリカなどの地域からの難民である。そして、彼らの目的地は、ヨーロッパの盟主ドイツである。そのあまりの移民の多さに、メルケル首相は「EUで難民の負担を共有すべき」旨の発表を行った。盟主ドイツをはじめとして、フランス、英国を含めた先進三国はEUの難民基準に該当しない難民を強制送還する考えを示している。

 難民の地位に関する条約(いわゆる難民条約)によれば、難民とは「人種、宗教、国籍、若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者又は望まない者」と定義されている。

 難民も元をたどれば、どこかの国の国民である。いかなる個人もどこかの国民としてこの世に生を受ける。つまり、個人と国家は不可分の関係にある。つまり、人は国家という枠組みの中で暮らしている。また、国家の第一義的な役割は国民の保護である。国家は、目に見えない境界線の内側で暮らす人を保護する役割を持ち、その外側にいる人々を保護する役割は持たない。

 国家が破たん状態に陥ったり、それを失ったりした人々はどこかの国家に受け入れてもらわなければならない。そうした状態で国境を一歩でも出れば、彼らは「国民」ではなく、「漂流難民」とみなされる。そこでは彼らは「よそ者」として生きなければならない。なぜなら、文化や言語を共有する「同胞」からすれば、文化も言語も共有していない彼らは「よくわからない」人々だからだ。

 受け入れた国民は、難民という「よそ者」と同じ空間で暮らさなければならず、一方で難民はその国の文化や言語を学ぼうともしないという状況が生まれやすい。というのも、着の身着のままやってきた難民にそんなことをする余裕はないからだ。彼らの生活を自分たちの税金で支えている中で、その国に暮らす国民は難民に対して不快感を覚えるかもしれない。その不快感は敵意となって難民の排斥につながるのだと思う。

近代以降、国民国家という枠組みが誕生し、現代においてもそれは支配的な枠組みとなっている。国家が破綻状態に陥り、難民が誕生するという事態が生じても、従来の国家という枠組みの中で、我々は考え行動している。難民問題は国民国家という枠組みの限界を象徴しているのではないだろうか。