実践する思考

主に社会科学と教育に関して、また読んだ本の書評も書いていくつもりです。

社会主義という宗教

 

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教キリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 

イスラム教アラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

 

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

 

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。

「普遍的な」人権思想、ヨーロッパで生まれた人権思想

今年は国際人権規約が採択されてから50年になる。なぜかは分からないが、「人権」という言葉を聞くたびに不思議な違和感に襲われる。今日はその人権について考えてみたい。

「朕は国家なり」というルイ14世の言葉に現れているように、中世末期のフランスでは王に権力が集中していた。王が権力を独占するという背景には、王権神授説という思想的基盤があった。王権神授説とは、王の権力の正統性は、神が王に権力を授けたことに由来する、という思想である。つまり、中世末期のフランス社会では神を論理の前提に持ち込むほど、キリスト教の影響力が強かった。

やがて、市民革命を経て、権力主体は王から国民へと変わる。その際に援用されたのが、ロックやルソーの社会契約説であった。これは、自然権を持つ各個人が契約によって、社会を作り出すという思想であり、革命後に制定された憲法では、人民主権という形で規定されることとなった。

国民が権力の源泉である正当性はどこにあるのだろうか。社会契約説では、各人が自然権を持つとされている。自然権とは、人が生まれながらにして有する権利であり、具体的には生命・自由・財産などの権利を指す。
王権神授説では王が政治を行う権利を有するのは神に由来していた。その一方で、社会契約説では個々人が自然権という権利を有することを謳っている。これは神が王ではなく個人に権力を付与するということを意味している。例えば、アメリカ独立宣言では、“Men are created equal”と明記されている。これは神が人々を平等に創った(create)から各個人に自然権があるという理屈である。つまり、神が権力を与える主体なのであって、その客体が王から人々に代わっただけなのだ。
しかし、自然権が人々の考え方として普及するだけでは人権理念は絵に描いた餅のままである。人民一人一人が武器をとって王政を打倒した事実が、自然権というフィクションに正当性を与えたのである。

自然権思想はやがて基本的人権という形になっていく。それは、アメリカ合衆国憲法やフランス憲法、そして西洋から大きく離れたここ日本でも、憲法に明確に規定されている。
しかし、基本的人権の成立過程では、キリスト教の影響があった。つまり、基本的人権の考え方はヨーロッパの文化的要素を含んでいるのだ。従って、他文化との摩擦は不可避である。対立とまでいかずとも、制度としての基本的人権と社会におけるその在り方はいつか齟齬をきたす可能性がある。
すなわち、社会契約説が社会の在り方を決めているヨーロッパと、天皇制を掲げる日本では文化的社会的構造が大きく異なる。そうした違いを考慮せずに、単に人権の理念を受け入れるだけでは、摩擦が起きるのは当然であろう。
人権が人々に普及するには、市民一人一人が王政を妥当するという事実が必要であった。現在、人権思想は世界大に拡大していき、多くの人々に受容されている。しかし、それはヨーロッパの歴史的文脈の中で生まれた概念であり、また人々が自ら獲得したという歴史的背景がある。したがって、第二次大戦後に人権が上から降ってきた日本社会とはまったく事情が異なる。努力して獲得せずに上から与えられたという背景があるために、人々が人権を当たり前のものとして受け取っているのだ。だから、その在り方を巡る齟齬が今になって生じているのだと思う。違和感の正体はこのような理念と実態の乖離にあるんだろうか。

新しいアメリカンドリーム

人は夢を見る。夢は、多くの人を魅了する。1867年のロンドンでマルクスは『資本論』を発表し、それ以降、彼の思想は世界中の人を魅了していった。そして、現在でもなお、大西洋を隔てたアメリカでも、マルクス主義から発展した社会主義を掲げる人物が人々を魅了している。バーニー・サンダース氏である。


不思議なことに、資本主義が高度に発達したアメリカにおいて社会主義を掲げる人物が人々から一定の支持を受けているのだ。というのも、アメリカでは深刻な格差が社会問題になっているからだ。一部の富裕層と貧困層との間の所得格差はすさまじく、特に若者は不況の中で失業や学費ローンの支払い等に苦しんでいる。そうした中で財産の分配を通じて平等な社会を目指す社会主義が脚光を浴びているのである。


そもそも資本主義とは何だろうか。資本主義は私的財産の所有を大原則としている。つまり、自らが労働という努力で勝ち得たものは、資本という形で自らのものになる。だからこそ、資本主義体制においては誰しもが努力すれば富を得ることができるという前提がある。これこそがアメリカンドリームの正体であり、かつて多くの人がこの夢を見て、アメリカに移住してきたのであった。


しかし、現実には財産は子や孫へ受け継がれていき、一部の層が独占したまま経済的な格差が固定化してしまう。またアメリカでは、政党による代議士への拘束がないため、議員立法が盛んである。そのため、個人が代議士などに直接働きかけるロビイング活動も活発に行われている。富裕層はロビイストを雇い、政治過程に影響力を行使することで、自らに有利な立法を促す。こうして格差はますます固定化していくのだ。


格差の固定化によって、誰しもが努力すれば富を得ることができるという資本主義の夢が崩壊した。つまり、理屈と実態で大きな矛盾が生じているのだ。サンダース氏が支持を受けているという現象は、社会主義という新しいアメリカンドリームを見る人が増えていることを意味している。大統領選挙を見ていて、そんなことを考えた。

 

立法とは何か

イギリス人民は、選挙中は自由だが、選挙が終われば忽ち奴隷となるという言葉をルソーは残している。この言葉は今の我々の議会制民主主義を考える上で大きな示唆を含んでいる。今日は議会の主な役割である立法機能について、日本の「国会」を例に考えてみたい。

 

日本国憲法41条に拠れば、国会は「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」であるとして、国会に立法機関としての地位が与えられている。では、そもそも立法とは何だろうか。

 

立法とは、法律を制定する国家作用を意味する。この場合の法律は、国民全体に関わるあらゆる事項のルールを定めたものである。つまり、不特定多数の人びとに対して、不特定多数の事柄や事件に適用される一般的抽象的な法規範を指す。立法とは、このような一般的抽象的な法規範を制定する国家作用なのだ。

 

ここからルソーの主張を引き出せる。すなわち、ルソーは、立法過程にはあらゆる人が関わらなければならないと述べているが、その意味するところは、法律は政治単位内のあらゆる人に関わるのだから、その制定過程を誰かが代表することはできないということである。だから、政治単位内のあらゆる人の参加が必要なのだと主張している。

 

しかし、近代の国民国家の登場以降、国家という政治単位内の全員が立法過程に直接参加するのは現実的には困難である。したがって、民主主義を掲げる国家は、選挙という形で「全員が立法に関われる」ような制度設計を行った。つまり、全員が立法に関わっているというフィクションを作り上げたのである。

 

フィクション化したのに、代表されている感がないから、投票率が低下した。にもかかわらず18歳に選挙権を拡大したところで、最初はともかく、まもなく投票率は再び低下するだろう。解決策は代表されている感をしっかり出して再びフィクションを信じさせることの他にはない。そして、そうしないと議会制民主主義が成り立たない。

自律的である必要性

中学校学習指導要領の道徳では、その内容として自律性を養うことが項目の一つに掲げられている。道徳における自律性の必要性とは何なのかを今回は考えていきたい。
自律性とは、自らが立てた規範に従って行動することである。つまり、他人から言われたままに行動するのではなく、自分で考えたルールに基づいて行動するさまである。例えば、電車の中で優先席だから席を譲るのではなく、けがなど体に支障をきたしている人や老人、妊婦に対して、余裕のある人が席を譲るという行動原理のことであろう。

自律性が求められる背景には、価値観の多様化という社会的状況がある。つまり、一人一人の考え方が多様化したことで、多くの人にとって共通している価値観が影響力を喪失した社会である。例えば、かつては年上を敬うという朱子学的な価値観などが多数の人間にとって常識であったが、今では必ずしもそうした価値観が共有されているわけではない。

価値観が多様化した理由は、共同体の崩壊とそれに伴う個人主義の進展にある。共同体とは地域的なつながりである。そこでは自分たちのことは自分で賄うという自治的な空気がある。それゆえ、共同体では協力が不可欠となり、内部で分裂することは避けるべきだとされ、何らかの規範が共有される。こうした中で育てば周りの人間と似たような同質的な人間集団が形成されていく。
しかし、インターネットの発達や都市化の進展などに伴って、協力せずとも「一人」で生きていけるようになった。そして、地域の人びととのつながりを持たない人が増え、共同体が崩壊した結果、共通の規範も消失したのである。

このように共通の規範がない状況では、どうしていいかわからずにパニックに陥る可能性がある。だからこそ、自律性が求められているのだ。つまり、自らが考えた抽象的な行動規範に従うことで、行為の際の指針を得ることができる。それに従えば、いろいろな状況に対応することが可能となる。例えば、余裕のあるものは困っている人に手を伸べるという規範を立てたとしよう。道で困っている人がいたら、周りの人が素通りしても、声をかけるだろうし、電車など他の場でもそうするだろう。
その場しのぎの回答ではなく、自らの行動規範に則り、自律的であるよう努めたい。また、教師を志すものとして、自律性を養う教育とはどのようなものか追及していきたい。

歴史を教えるということ


教師が学校で歴史を教えるということはどのようであるべきなのだろうか。そもそも歴史とは何なのかということを考えると、一般的に歴史とは「過去から現在までの変化の様子を記録したもの」である。つまり、歴史とは社会や文化、思想から地形までの、ありとあらゆる人間の営為の変遷を記したものなのである。そして、現代は過去の事象の積み重ねの上に成り立っており、歴史とはその堆積していく様子を記録したものに他ならない。

とすると、現代というのは、歴史の最先端にあるということである。そこで営まれている行為は、やがては歴史として記述される運命にある。実際、社会は一人一人の個人の集合体であり、個人が作り上げていきながら、その集合体としての全体が変化していく。つまり、個人の態度次第で社会の方向性に大きな影響を与えることになる。それゆえ、今現在の生き方や未来への展望を描く際には、最初に自分自身、言い換えれば自分の生きる現代を無批判で受け入れることなしに、冷静に検討することが必要になってくるのである。

そうした検討を可能ならしめるものは、比較という視点である。すなわち、現代と並列して存在し、比較検討する現代とは別の時代が必要となる。その「別の時代」は複数あったほうがよく、また空間的にも広がりを見せたほうがよい。すなわち、日本史だけでなく世界史をも学ぶ必要性がここに出てくるのである。だから、歴史を学ぶことの意義というのは、その比較検討の材料を多く手に入れるというところにある。私たちや私たちの世界を絶対化することなく相対化していく視点を育むために、歴史を学ぶ必要があるのだ。現代において「常識」とされていることを疑い、社会をより良い方向に変化させていく考察を可能とさせることが、歴史教育の果たす役割である。

だから、社会の構成員の一人にとって、こうした歴史的知識はかくて必須の教養である。しかし、実際の教育現場では歴史は単なる受験科目や暗記科目になり下がっているようだ。従って、教師は児童・生徒が現代を相対化する視座を養うきっかけを提起していくようにしなければならない。教師は歴史を単なる過去の事象ではなく、それが変化して現代社会の基盤となっていることを伝えていかなければならない。また、過去と現代の事象を比較することで、「今」を考えるきっかけを与えなければならない。歴史を教えるということは、現代と過去を不断に往復するきっかけを児童・生徒に与え、現代を考えさせることなのだから。

 

<追記>

何かと理由をつけては、ブログから遠ざかっていました。気づけば、最後にブログを更新してから5か月が経過してしまいました。今後は、できない理由を探すのではなく、継続的に記事の執筆に取り組みたいと思います。

「国民」って誰のこと?

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平成27年9月15日、学生団体SEALDs代表の奥田愛基君が参議院特別委員会の公聴会で意見陳述を行った。その中で彼は、「国民」の多くが安保法制に反対している趣旨の発言をしていた。以下は彼の意見陳述の一部である。

 

①「この安保法制に対する疑問や反対の声は、現在でも日本中で止みません。つい先日も国会前では10万人を超える人が、集まりました。しかし、この行動はなにも東京の、しかも国会前(だけ)で行われているわけではありません。私たちが独自にインターネットや新聞などで調査した結果、日本全国2000ヶ所以上、数千回を超える抗議が行われています。累計して130万人以上の人が路上に出て声を上げています。この私たちが調査したものやメディアに流れているもの以外にも、たくさんの集会があの町でもこの町でも行われています。まさに、全国各地で声があがり、人々が立ち上がっているのです。」

②「国民を馬鹿にしないでください」

③「私は先日予科練で、特攻隊だった方と会ってきました。…そうした世代の方々も、この安保法制に対して、強い危惧を抱いています。私はその声をしっかりと受け止めたいと思います。」

 

①にある彼らが持ち出してきた数字だけを見ると、確かに反対する国民は「多い」と感じる。しかし、現在日本には約1億2000万人が暮らしており、そのうち130万人といえば、0.000001%である。また、③の発言では戦争を体験した世代(当時20歳だとして90歳以上の世代)が一様に安保法制に反対しているような論調であるが、それはフィクションでしかない。というのも、政府の人口統計によれば、90歳以上人口は現在約150万人であり、その全員が同一の意見をもっているというのは有り得ないからだ。

 

辞書を引くと、国民とは「国籍をもつ国家の構成員個々人,あるいはその全体」、または「一定の領土に定住し,共通の文化・社会体験をもつという想定のもとに,政治的な統一組織を作り上げた人間の集団」とある。つまり、「国民」に国家を構成する一人一人の個々人と、その集合体という二つの意味がある。国民主権憲法に明記されている日本では、国民が統治行為の究極的な権威だ。この場合の国民は集合体としての国民である。

 

奥田くんは意見陳述全体の中で10回「国民」という言葉を用いている。②のような「国民を馬鹿にしないでください」などという発言から察するに、その意味するところは「集合体」としての国民だろう。だが、集合体としての国民は現実に存在せず、「想像」上のものでしかない。③の発言で言及されているように、彼らは確かに「多くの」安保法制反対者に会い、話を聞いたのだろう。しかし、目に見える部分だけで「個々人」を「集合体」に格上げし、「国民が反対している」などという考えに至るのは早計に過ぎる。また、たとえ意見をもっていても、声を上げなければ意見は見えてこない。彼らはどうやら、自分たちが聞き取った声が「多くの」国民の声だと思っているようだ。

 

確かに「国民」の中には安保法制に反対している人が「多く」いるのだろう。しかし、「賛成」している「国民」もいる。少なくとも僕は賛成派である。学生である彼らが具体的な行動を起こし、国会で意見陳述するまでした行動力にはただただ脱帽するしかない。だが、彼らの姿勢には僕は全く共鳴できない。目に見える大きな声だけを拾って、さもそれが「民意」であるかのような都合の良い解釈をし、そうした言説を流布する姿勢は、扇動者のそれである。そうした姿勢こそ、彼らの言う「民主主義の危機」を促進するものだと思う。