Shiras Civics

Shiras Civics

「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

MENU

安定した政治のための工夫~アメリカ大統領選挙制度の特徴~

 

 

アメリカでは大統領選挙の真最中である。ドナルド・トランプ氏が共和党の正式候補となり、民主党の正式候補となったヒラリー・クリントン氏と激戦を繰り広げている。世界最強国家の首長を決定するだけあって、アメリカ国内だけでなく世界中から、次のリーダーが誰になるのか注目を集めている。そして、太平洋を隔てた日本でもリーダーの選出方法に関する議論がなされている。それが首相公選制である。

 首相公選制とは

首相公選制とは、行政府の長である内閣総理大臣を国民が直接選出する制度である。小泉元首相や橋下徹大阪市長が導入を盛んに主張したことで、国民的議論に火が付いたように思う。賛成意見の多くは、より民意を反映するために国民が首相を直接選ぶべきというものだ。一方、反対意見もあり、候補者が人気取りに終始し、十分な政策論議がなされないといった声もある。実際、中南米では大統領などが独裁者と化し、政治が腐敗してしまった国もある。

 アメリカの政治が安定している背景

権力分立

しかし、国家元首を直接選ぶアメリカでは大きな混乱などなく、政治状況も安定しているように見える。思うに、アメリカの政治状況が安定しているのには、制度的な背景があるのではないか。一つには権力分立が徹底しているという点、もう一つは選挙期間が約一年間とかなり長い点だ。

権力分立の徹底とは、立法府・行政府・司法府の三権で厳しい監視と抑止が相互になされているということである。大統領は国民の直接選挙を通じて選出されるため、民主的正当性が強く、強大な権力がある。例えば、議会に対する拒否権や条約締結権を保持している。しかし、議会にも強い権限があり、大統領が結んだ条約締結の同意権や弾劾裁判を設置することで非行のあった大統領を罷免することができる。このように大統領が独裁化しないような制度的工夫がなされており、また、裁判所は違憲立法審査権を持っているため、立法権司法権に対する司法権の優位が制度化されている。三権が相互に抑制しあうことで、いずれかの機関が独裁化しないようになっている。

 選挙期間の長さ

選挙期間の長さも政治状況の安定に寄与している。アメリカの大統領選挙は約一年間かけて行われる。まず、政党ごとの候補者争いである予備選挙が行われる。予備選挙には7,8か月ほどの期間を要し、政党ごとの候補者が決定した後に、各政党の候補者同士が争う本選挙が行われる。本選挙は二か月ほどかけて行われる。

こうした選挙期間の長さは、有権者が候補者を認知し、また候補者について学ぶ時間を提供している。さらには、予備選挙と本選挙に分かれているために、有権者が節目ごとに候補者選びを意識する制度的工夫がなされている。選挙期間の長さによって有権者は候補者について十分に学ぶことができ、十分な政策論議ができ、一時の熱情ではなく冷静に候補者を選ぶことができる。そして、段階ごとの選挙方式によって、有権者が選挙に興味を失わない工夫がなされている。長い時間をかけて選ばれた候補者は民意をより反映しているのだ。

巧みな制度設計

厳格な権力分立と長期間の大統領選挙の存在が、アメリカに安定した政治状況をもたらしている。建国者の巧みな制度設計によって、アメリカが国家元首を直接選出する方法を採用していても、大きな混乱がないといえよう。さて、次の大統領は誰なのか、遠い日本に住む私も興味津々である。

北海道新幹線から考える資本主義

 

 

北海道新幹線の開業

北海道新幹線が3月26日に開業してから3週間が経過した。整備計画が立てられてから実に43年が経過しており、まさに日本中を新幹線で結びつけるという「悲願」が達成された事業だといえる。しかし、前評判ほど業績は良くないようだ。開業2週間時点での平均乗車率は27%を記録しており、JR北海道によれば「今後3年間の収支見通しは約48億円の赤字」である。

北海道新幹線が赤字を出している背景

こうした事態は、人々が新たな移動手段を求めていないこと、とりわけ北海道への新たな移動手段を求めていないということを意味している。消費者は既存の手段で満足しており、もはや開拓する市場がほとんどないのである。
市場はモノとモノを交換する場であり、モノの中には財だけでなくサービスも含まれる。そうしたモノの交換は必要性から生じる。例えば、人々が移動において「速さ」を求めるなら、自動車より電車、電車よりも飛行機というように、より早く移動できるサービスを求める。電車だけを見ても、普通列車よりも快速列車、快速列車よりも新幹線、新幹線よりもリニアモーターカーというようにより速度の速い移動手段を利用するだろう。ましてや飛行機であれば、どれだけ時間を節約できるか。

f:id:europesan:20180831161224p:plain

北海道新幹線の価値はどこにあるのだろうか

翻って見ると、北海道新幹線は東京-函館間で飛行機による移動の1.5倍の時間がかかるため、既存の移動手段に対して「速さ」という点で劣っている。価格という点から見ても、特段安いわけではない。したがって、既存の移動手段と比べて市場価値があるとは言えないだろう。

暴走列車「資本主義号」

 必要性がないにもかかわらず、市場ではどんどん新たなモノが作り続けられる。そこには、人々が必要性に駆られて行う交易という市場本来の姿はない。需要のないところに需要を作り出そうとして失敗した。まさに資本主義の暴走という事態が生じているのだ。
資本主義は市場の拡大をその原理としている。つまり、資本を集積し、その資本を元手に新たな市場を開拓することで、さらなる資本の集積を行うのである。カネを投資することで、さらなるカネを呼び寄せ、そしてまた投資するという拡大を基本とするシステムなのだ。

しかし、北海道新幹線の乗車率が3分の1にも満たないという事実は、拡大するべき市場が既につき始めていることを物語っている。あるいは適切な需要を考慮せずに、「悲願達成」だけのために投資してしまったのだろうか。そうだとしたら、それは社会主義経済における計画経済と変わらない。これだけ買うだろうから、これだけ作ってしまおうと。とするなら、供給過多になるのもうなづけるだろう。

国富が減少し、さらには資源の有限性が世界中で叫ばれている。拡大を続ける資本主義も、それを支える旺盛な需要と無限の資源がないともはやシステムを維持することはかなわない。そろそろ日本における資本主義は限界を迎えつつあるのではないだろうか。ニュースを見て、そんなことを考えた。

共同体を作る宗教

 

 

最近、「絆」や「コミュニケーション」、「コミュニティ―」といった言葉をよく耳にする。なぜ、今になって絆やコミュニケーションといったことが注目されるようになったのかを、宗教をキーワードに考えてみたい。

 宗教共同体

宗教とは、人々の共通の価値観を提供するものである。特定の価値観を共有することで、人々は共同体を形成する。すなわち、宗教共同体である。たとえば、中世のヨーロッパではキリスト教が広く普及し、人々の価値観から生活までをも規定していた。共同体の頂点に立っていたのがローマ教皇であり、彼を中心として西ヨーロッパにはキリスト教に基づく宗教共同体が形成されていた。また、イスラーム教においては、その教えに基づく宗教共同体のことをウンマと呼び、人々はウンマにおいてイスラームの教えに従って生活している。ただし、コーランに書かれているままに従うのではなく、現代的に解釈されたイスラーム法に従っている。だから現代でもイスラム法学者は指導的地位にある。では、そうした宗教共同体は日本にあるのだろうか。

 日本における宗教共同体

かつての日本では、人々の生活の領域は小さな共同体に限定されていた。つまり、農村や漁村などの村社会の内部で多くの人々は生活していたのである。人々は互いに面識のある間柄において生活していた。そうした人々によって形成されたのが、「世間」である。

 世間とは

辞書を見ると、世間とは「社会」や「自分の活動・交際の範囲」と定義されている。すなわち、世間とは人々の集合体であり、その集合体はある一定の範囲に限定される。したがって、地域性を持った社会が世間であり、たとえばご近所付き合いや町内会、自治会などが該当するだろう。

世間は社会であると同時に宗教でもある。なぜなら、世間は人々の結びつきの上に作られるものであり、一方で人々に共通の価値観を提供するからである。たとえば、村では村掟という村のルールが作られ、それに反したものは村八分という形で排除された。つまり、共同体を構成するものは村掟という共通の価値観に従うことを要求されるのである。また、「世間様に顔向けできない」という言葉があるように、「世間」が人々の行動の規範となっていたのである。人々の行動を律するという点において、「世間」は宗教的な側面を有しているといえよう。

 現代における変化

しかし、インターネットの普及や都市化によって地域社会における交流がめっきり減少してしまった。つまり、誰かと協力して生きる必要性がなく、娯楽が多様化し、情報を得る手段が広く普及したことによって、社会の個人化が進行し、その結果として地域社会が消滅したのである。それは地域社会における「世間」の消滅を意味し、同時に人々の行動を律するものがなくなったことも意味する。「世間」という宗教がなくなったことで、人々は行動の野放図的な自由を手にしたのである。

世間の消滅がもたらしたもの

「世間」という宗教がなくなったことで、人々は「自由」になった。しかし、その消滅が招いたものは人々の地域社会からの孤立であり、また行動規範たる道徳の崩壊という帰結だったと思う。そうした文脈の中に、人々の紐帯である「絆」だとか、紐帯を作り上げる「コミュニケーション」、そしてその日常的な空間である「コミュニティー」が今の時代になって注目を集めているのだと思う。

社会主義という宗教

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教やキリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 三大宗教について

イスラム

イスラム教はアラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 キリスト教

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 仏教

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 宗教の機能

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 社会主義:現代における新たな宗教か

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。

「普遍的な」人権思想、ヨーロッパで生まれた人権思想

今年は国際人権規約が採択されてから50年になる。なぜかは分からないが、「人権」という言葉を聞くたびに不思議な違和感に襲われる。今日はその人権について考えてみたい。
朕は国家なり」というルイ14世の言葉に現れているように、中世末期のフランスでは王に権力が集中していた。王が権力を独占するという背景には、王権神授説という思想的基盤があった。王権神授説とは、王の権力の正統性は、神が王に権力を授けたことに由来する、という思想である。つまり、中世末期のフランス社会では神を論理の前提に持ち込むほど、キリスト教の影響力が強かった。
やがて、市民革命を経て、権力主体は王から国民へと変わる。その際に援用されたのが、ロックやルソーの社会契約説であった。これは、自然権を持つ各個人が契約によって、社会を作り出すという思想であり、革命後に制定された憲法では、人民主権という形で規定されることとなった。
国民が権力の源泉である正当性はどこにあるのだろうか。社会契約説では、各人が自然権を持つとされている。自然権とは、人が生まれながらにして有する権利であり、具体的には生命・自由・財産などの権利を指す。
王権神授説では王が政治を行う権利を有するのは神に由来していた。その一方で、社会契約説では個々人が自然権という権利を有することを謳っている。これは神が王ではなく個人に権力を付与するということを意味している。例えば、アメリカ独立宣言では、“Men are created equal”と明記されている。これは神が人々を平等に創った(create)から各個人に自然権があるという理屈である。つまり、神が権力を与える主体なのであって、その客体が王から人々に代わっただけなのだ。
しかし、自然権が人々の考え方として普及するだけでは人権理念は絵に描いた餅のままである。人民一人一人が武器をとって王政を打倒した事実が、自然権というフィクションに正当性を与えたのである。
自然権思想はやがて基本的人権という形になっていく。それは、アメリカ合衆国憲法やフランス憲法、そして西洋から大きく離れたここ日本でも、憲法に明確に規定されている。
しかし、基本的人権の成立過程では、キリスト教の影響があった。つまり、基本的人権の考え方はヨーロッパの文化的要素を含んでいるのだ。従って、他文化との摩擦は不可避である。対立とまでいかずとも、制度としての基本的人権と社会におけるその在り方はいつか齟齬をきたす可能性がある。
すなわち、社会契約説が社会の在り方を決めているヨーロッパと、天皇制を掲げる日本では文化的社会的構造が大きく異なる。そうした違いを考慮せずに、単に人権の理念を受け入れるだけでは、摩擦が起きるのは当然であろう。
人権が人々に普及するには、市民一人一人が王政を妥当するという事実が必要であった。現在、人権思想は世界大に拡大していき、多くの人々に受容されている。しかし、それはヨーロッパの歴史的文脈の中で生まれた概念であり、また人々が自ら獲得したという歴史的背景がある。したがって、第二次大戦後に人権が上から降ってきた日本社会とはまったく事情が異なる。努力して獲得せずに上から与えられたという背景があるために、人々が人権を当たり前のものとして受け取っているのだ。だから、その在り方を巡る齟齬が今になって生じているのだと思う。違和感の正体はこのような理念と実態の乖離にあるんだろうか。

新しいアメリカンドリーム

 

 

人は夢を見る。夢は、多くの人を魅了する。1867年のロンドンでマルクスは『資本論』を発表し、それ以降、彼の思想は世界中の人を魅了していった。そして、現在でもなお、大西洋を隔てたアメリカにおいて、マルクス主義から発展した社会主義を掲げる人物が人々を魅了している。バーニー・サンダース氏である。

 

資本主義が国是の国で社会主義者が登場した異様さ

不思議なことに、資本主義が高度に発達したアメリカにおいて社会主義を掲げる人物が人々から一定の支持を受けているのだ。20世紀半ばに赤狩りの名目で多くの共産主義者が公職から追放されたことを鑑みると隔世の感がある。

なぜサンダースが支持を得ているかといえば、アメリカでは深刻な格差が社会問題になっているからだ。一部の富裕層と貧困層との間の所得格差はすさまじく、特に若者は不況の中で失業や学費ローンの支払い等に苦しんでいる。そうした中で財産の分配を通じて平等な社会を目指す社会主義が脚光を浴びているのである。

 

アメリカンドリーム=資本主義での成功

そもそも資本主義とは何だろうか。資本主義は資本が自己増殖するシステムのことだ。資本とは簡単に言えばカネであり、資本主義とは、カネを投資することでさらにカネを増やそうという仕組みのことである。

その前提には、私的財産の所有という大原則がある。つまり、自らが労働という努力で勝ち得たものは、資本という形で自らのものになる。だからこそ、資本主義体制においては誰しもが努力すれば富を得ることができるという前提がある。これこそがアメリカンドリームの正体であり、かつて多くの人がこの夢を見て、アメリカに移住してきたのであった。

f:id:europesan:20180830144951p:plain

 

夢の裏側にあるものは…

しかし、現実には財産は子や孫へ受け継がれていき、一部の層が独占したまま経済的な格差が固定化してしまう。そうした社会的な要因に加えて政治的な要因も格差の固定化を助長する。アメリカでは、政党による代議士への拘束がないため、議員立法が盛んである。そのため、個人が代議士などに直接働きかけるロビイング活動も活発に行われている。富裕層はロビイストを雇い、政治過程に影響力を行使することで、税制面での優遇や公共投資など自らに有利な立法を促す。こうして持てるものと持たざる者との間の格差はますます拡大化し、固定化していくのだ。夢はその前提条件が保持されない限り、単なる妄想と化してしまうのである。

 

新しい夢を求める人々

格差の固定化によって、誰しもが努力すれば富を得ることができるという資本主義の夢は崩壊してしまった。つまり、建前と実態で大きな矛盾が生じているのだ。サンダース氏が支持を受けているという「本来ならばあり得なかった」現象は、社会主義という新しいアメリカンドリームを見る人が増えていることを意味している。

 

夢は見ている間はさも現実かのように見える。その点で資本主義も社会主義も変わりはない。問題はどちらが自分にとって都合がいいかである。資本主義が一定の人から支持されている一方で、不支持も広がっている。大統領選挙を見ていて、そんなことを考えた。 

立法とは何か

イギリス人民は、選挙中は自由だが、選挙が終われば忽ち奴隷となるという言葉をルソーは残している。この言葉は今の我々の議会制民主主義を考える上で大きな示唆を含んでいる。今日は議会の主な役割である立法機能について、日本の「国会」を例に考えてみたい。

 

日本国憲法41条に拠れば、国会は「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」であるとして、国会に立法機関としての地位が与えられている。では、そもそも立法とは何だろうか。

 

立法とは、法律を制定する国家作用を意味する。この場合の法律は、国民全体に関わるあらゆる事項のルールを定めたものである。つまり、不特定多数の人びとに対して、不特定多数の事柄や事件に適用される一般的抽象的な法規範を指す。立法とは、このような一般的抽象的な法規範を制定する国家作用なのだ。

 

ここからルソーの主張を引き出せる。すなわち、ルソーは、立法過程にはあらゆる人が関わらなければならないと述べているが、その意味するところは、法律は政治単位内のあらゆる人に関わるのだから、その制定過程を誰かが代表することはできないということである。だから、政治単位内のあらゆる人の参加が必要なのだと主張している。

 

しかし、近代の国民国家の登場以降、国家という政治単位内の全員が立法過程に直接参加するのは現実的には困難である。したがって、民主主義を掲げる国家は、選挙という形で「全員が立法に関われる」ような制度設計を行った。つまり、全員が立法に関わっているというフィクションを作り上げたのである。

 

フィクション化したのに、代表されている感がないから、投票率が低下した。にもかかわらず18歳に選挙権を拡大したところで、最初はともかく、まもなく投票率は再び低下するだろう。解決策は代表されている感をしっかり出して再びフィクションを信じさせることの他にはない。そして、そうしないと議会制民主主義が成り立たない。

なぜ自律的である必要があるのか-教育目標としての自律-

 

 

中学校学習指導要領の道徳では、その内容として自律性を養うことが項目の一つに掲げられている。道徳における自律性の必要性とは何なのかを今回は考えていきたい。

なぜ自律的である必要があるのか

自律性とは

自律性とは、自らが立てた規範に従って行動することである。つまり、他人から言われたままに行動するのではなく、自分で考えたルールに基づいて行動するさまである。

例を挙げるならば、電車の中で優先席だから席を譲るのではなく、けがなど体に支障をきたしている人や老人、妊婦に対して、余裕のある人が席を譲るという行動原理のことであろう。

自律性が求められる背景はなんなのか

自律性が求められる背景には、価値観の多様化という社会的状況がある。つまり、一人一人の考え方が多様化したことで、多くの人にとって共通している価値観が影響力を喪失した社会である。

たとえば、かつては年上を敬うという朱子学的な価値観などが多数の人間にとって常識であったが、今では必ずしもそうした価値観があらゆる世代で共有されているわけではない。

なぜ価値観が多様化したのか

価値観が多様化した理由は、共同体の崩壊それに伴う個人主義の進展にある。

共同体とは地域的なつながりである。そこでは自分たちのことは自分で賄うという自治的な空気がある。それゆえ、共同体では協力が不可欠となり、内部で分裂することは避けるべきだとされ、何らかの規範が共有される。こうした中で育てば周りの人間と似たような同質的な人間集団が形成されていく。
しかし、インターネットの発達や都市化の進展などに伴って、協力せずとも「一人」で生きていけるようになった。そして、地域の人びととのつながりを持たない人が増え、共同体が崩壊した結果、共通の規範も消失したのである。

共通の規範がないとどうなるか

このように共通の規範がない状況では、行動を起こす際に迷いがどうしても生じてしまう。例を出せば、ある行為をしたときに謝るべきなのかどうか、生徒が問題行動をした場合にそれを叱るのかどうか、というように生活におけるあらゆる場面で迷いが生じうるのだ。究極的には、どうしていいかわからずにパニックに陥る可能性すらある。

だからこそ、自律性が求められているのだ。つまり、自らが考えた抽象的な行動規範に従うことで、行為の際の指針を得ることができる。それに従えば、いろいろな状況に対応することが可能となる。

たとえば、余裕のあるものは困っている人に手を伸べるという規範を立てたとしよう。道で困っている人がいたら、周りの人が素通りしても、声をかけるだろうし、電車など他の場でもそうするだろう。

自律性を養う教育とはなんだろうか

自律性を養う教育の目標は、生徒が自らの行動原理を持つことである。その評価方法として、たとえば授業でロールプレイングを導入して意思決定をさせたり、価値観を提示して選ばせたり、といったことができるだろう。

価値観や行動原理というのは、すでに生育過程で習得しているかもしれない。経験則に基づいて行動する生徒にはこれが当てはまるだろう。一方で、何事も迷ってしまう生徒にはそもそも行動原理がない。

前者のような生徒には、自らの行動原理を言語化して認識することが効果的であり、後者のような生徒には、どのような価値観があるかをインプットし、その価値観の中から自分の感覚に近いものを選択してもらい、その後その軸に則って行動をするよう促すのが有効だろう。どちらの生徒にも行動原理を意識化し、次第に自動化するまで教師が手助けするのだ。

こうした教育活動を通じて確固たる行動原理を生徒に身につけてもらいたい。その前提として常に生徒を見て、活動に対するフィードバックを与え、入念な準備が必要なのは言うまでもない。

f:id:europesan:20180830064001p:plain

生徒に自律性を養う以前に、教える教師が自律的でなければならない。

その場しのぎの回答ではなく、自らの行動規範に則り、自律的であるよう努めたい。また、教師としても、自律性を養う教育とはどのようなものか追及していきたい。

歴史を教えるということ

 

 

歴史教育をする意義について考えた

そもそも歴史とはなんだろうか

教師が学校で歴史を教えるということはどのようであるべきなのだろうか。というよりも、そもそも歴史とは何なのだろうか。

それを考えると、一般的に歴史とは「過去から現在までの変化の様子を記録したもの」である。つまり、歴史とは社会や文化、思想から地形までの、ありとあらゆる人間の営為の変遷を記したものなのである。

そして、現代は過去の事象の積み重ねの上に成り立っており、歴史とはその堆積していく様子を記録したものに他ならない。

f:id:europesan:20180830230327p:plain

歴史の最前線にある現代

とすると、現代というのは、歴史の最先端にあるということである。そこで営まれている行為は、やがては歴史として記述される運命にある。

実際、社会は一人一人の個人の集合体であり、個人が作り上げていきながら、その集合体としての全体が変化していく。つまり、個人の態度次第で社会の方向性に大きな影響を与えることになる。

それゆえ、今現在の生き方や未来への展望を描く際には、最初に自分自身、言い換えれば自分の生きる現代を無批判で受け入れることなしに、冷静に検討することが必要になってくるのである。

たとえたった一人の些細な選択であろうとも、それが集合体となれば未来の社会へ及ぼす影響は甚大になる。考えなしに意思決定してしまえば、とんでもない事態を招くかもしれないのだ。

比較という視点:検討をするための土台

そうした検討を可能ならしめるものは、比較という視点である。すなわち、現代と並列して存在し、比較検討する現代とは別の時代が必要となる

その「別の時代」は複数あったほうがよく、また空間的にも広がりを見せたほうがよい。すなわち、日本史だけでなく世界史をも学ぶ必要性がここに出てくるのである。

だから、歴史を学ぶことの意義というのは、その比較検討の材料を多く手に入れるというところにある。私たちや私たちの世界を絶対化することなく相対化していく視点を育むために、歴史を学ぶ必要があるのだ。

現代において「常識」とされていることを疑い、社会をより良い方向に変化させていく考察を可能とさせることが、歴史教育の果たす役割である。

必須の教養教育としての歴史教育

だから、社会の構成員の一人にとって、こうした歴史的知識はかくて必須の教養なのである

しかし、実際の教育現場では歴史は単なる受験科目や暗記科目になり下がっているようだ。従って、教師は児童・生徒が現代を相対化する視座を養うきっかけを提起していくようにしなければならない。

教師は歴史を単なる過去の事象ではなく、それが変化して現代社会の基盤となっていることを伝えていかなければならない。

また、過去と現代の事象を比較することで、「今」を考えるきっかけを与えなければならない。歴史を教えるということは、現代と過去を不断に往復するきっかけを児童・生徒に与え、現代を考えさせることなのだ。

具体的にはどのような歴史教育を行っていくべきなのか

ここまで概観したのは、社会の歴史についての考察であった。しかし、歴史が事象の積み重ねを記録したものだとすれば、日記は個人の歴史だし、学級日誌は学級の歴史を記したものとなる。至る所に歴史は潜んでいるのだ。重要なことはそれらを材料として比較検討し、意思決定の際に活用することである。みずからがどのような進路へ行くべきか、方向性を決めるのは先人の経験を比較することだろう。集団の意思決定であれば、集団の歴史をさかのぼればよい。

現代の課題を提示し、かつての類似した解決済みの事例をいくつか提示し、それらを比較検討することで、どのように解決するかアイデアを出させたい。

上記の授業例を、ブルームのタキソノミーに則って分析すれば、

事例の理解、課題の分析、解決策の統合

という段階を踏まえることがわかる。かなり高度ではあることに留意したい。

 

あらゆるところにある「空気」

電車内での出来事である。私の近くに親子4人が座っていた。その内の1、2歳くらいの男の子が泣いていて、親がなだめても泣き止まない。思わずそちらに目を向けると、母親と目があった。気まずい。しかし、うるさいものはうるさい。だがいよいよ耐え切れず、視線を反対方向へ向けると、この車両に乗っているほとんどの人が親子の方に顔を向けていた。中には眉間にしわを寄せ、不快感を顕にしている人もいた。


不思議だと感じた。誰ひとり彼らに注意しないのに、嫌悪感はむき剥き出しにしているのである。無言の注意であろうか。まさにこれが「空気」や「同調圧力」と呼ばれる状態なのだろう。そうした車内の空気には、「迷惑だから、泣いている子供をなだめろ」というメッセージが込められており、それに則って親子は行動していたといえる。だから、誰一人として具体的な「声」を上げなかったのである。

だが、もし親子が空気を読まなかったらどうなっただろうか。つまり、泣いている子供を放置していたらどうなったか、ということである。おそらく、誰か注意する人が出てきただろう。あるいはTwitterなどのSNSに「泣いている子供を放置する親、ありえない」などと書き込まれたかもしれない。それが拡散されれば、「日本人の民度が下がった」「母親失格」などという書き込みがなされるかもしれない。


このように、空気に則った行動をしなければ、レベルの差こそあれ制裁が加えられる。ただし、空気が醸成されるには、そこにいる人たちの間である価値観が共有されていることが前提となる。今回は「子供が泣いていたら迷惑なので、なだめるのは当然」という価値観が車内のほとんどの人に共有されていたのだろう。


「空気」はある程度の間柄で醸成されると思っていたが、そんなことはなかった。今回の例のように見知らぬ人との間にも空気はあったのだ。ただし、それはあくまでも「日本人」という間柄に限った話である。些細なところから日本文化が垣間見えた。