Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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国民国家の限界

ヨーロッパに大挙して押し寄せてきている人々がいる。彼らは、中東や北アフリカなどの地域からの難民である。そして、彼らの目的地は、ヨーロッパの盟主ドイツである。そのあまりの移民の多さに、メルケル首相は「EUで難民の負担を共有すべき」旨の発表を行った。盟主ドイツをはじめとして、フランス、英国を含めた先進三国はEUの難民基準に該当しない難民を強制送還する考えを示している。

 難民の地位に関する条約(いわゆる難民条約)によれば、難民とは「人種、宗教、国籍、若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者又は望まない者」と定義されている。

 難民も元をたどれば、どこかの国の国民である。いかなる個人もどこかの国民としてこの世に生を受ける。つまり、個人と国家は不可分の関係にある。つまり、人は国家という枠組みの中で暮らしている。また、国家の第一義的な役割は国民の保護である。国家は、目に見えない境界線の内側で暮らす人を保護する役割を持ち、その外側にいる人々を保護する役割は持たない。

 国家が破たん状態に陥ったり、それを失ったりした人々はどこかの国家に受け入れてもらわなければならない。そうした状態で国境を一歩でも出れば、彼らは「国民」ではなく、「漂流難民」とみなされる。そこでは彼らは「よそ者」として生きなければならない。なぜなら、文化や言語を共有する「同胞」からすれば、文化も言語も共有していない彼らは「よくわからない」人々だからだ。

 受け入れた国民は、難民という「よそ者」と同じ空間で暮らさなければならず、一方で難民はその国の文化や言語を学ぼうともしないという状況が生まれやすい。というのも、着の身着のままやってきた難民にそんなことをする余裕はないからだ。彼らの生活を自分たちの税金で支えている中で、その国に暮らす国民は難民に対して不快感を覚えるかもしれない。その不快感は敵意となって難民の排斥につながるのだと思う。

近代以降、国民国家という枠組みが誕生し、現代においてもそれは支配的な枠組みとなっている。国家が破綻状態に陥り、難民が誕生するという事態が生じても、従来の国家という枠組みの中で、我々は考え行動している。難民問題は国民国家という枠組みの限界を象徴しているのではないだろうか。