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実践する思考

主に社会科学と教育に関して、また読んだ本の書評も書いていくつもりです。

共同体を作る宗教

 

最近、「絆」や「コミュニケーション」、「コミュニティ―」といった言葉をよく耳にする。なぜ、今になって絆やコミュニケーションといったことが注目されるようになったのかを、宗教をキーワードに考えてみたい。

 

宗教とは、人々の共通の価値観を提供するものである。特定の価値観を共有することで、人々は共同体を形成する。すなわち、宗教共同体である。たとえば、中世のヨーロッパではキリスト教が広く普及し、人々の価値観から生活までをも規定していた。共同体の頂点に立っていたのがローマ教皇であり、彼を中心として西ヨーロッパにはキリスト教に基づく宗教共同体が形成されていた。また、イスラーム教においては、その教えに基づく宗教共同体のことをウンマと呼び、人々はウンマにおいてイスラームの教えに従って生活している。ただし、コーランに書かれているままに従うのではなく、現代的に解釈されたイスラーム法に従っている。だから現代でもイスラム法学者は指導的地位にある。では、そうした宗教共同体は日本にあるのだろうか。

 

かつての日本では、人々の生活の領域は小さな共同体に限定されていた。つまり、農村や漁村などの村社会の内部で多くの人々は生活していたのである。人々は互いに面識のある間柄において生活していた。そうした人々によって形成されたのが、「世間」である。

 

辞書を見ると、世間とは「社会」や「自分の活動・交際の範囲」と定義されている。すなわち、世間とは人々の集合体であり、その集合体はある一定の範囲に限定される。したがって、地域性を持った社会が世間であり、たとえばご近所付き合いや町内会、自治会などが該当するだろう。

 

世間は社会であると同時に宗教でもある。なぜなら、世間は人々の結びつきの上に作られるものであり、一方で人々に共通の価値観を提供するからである。たとえば、村では村掟という村のルールが作られ、それに反したものは村八分という形で排除された。つまり、共同体を構成するものは村掟という共通の価値観に従うことを要求されるのである。また、「世間様に顔向けできない」という言葉があるように、「世間」が人々の行動の規範となっていたのである。人々の行動を律するという点において、「世間」は宗教的な側面を有しているといえよう。

 

しかし、インターネットの普及や都市化によって地域社会における交流がめっきり減少してしまった。つまり、誰かと協力して生きる必要性がなく、娯楽が多様化し、情報を得る手段が広く普及したことによって、社会の個人化が進行し、その結果として地域社会が消滅したのである。それは地域社会における「世間」の消滅を意味し、同時に人々の行動を律するものがなくなったことも意味する。「世間」という宗教がなくなったことで、人々は行動の野放図的な自由を手にしたのである。

 

「世間」という宗教がなくなったことで、人々は「自由」になった。しかし、その消滅が招いたものは人々の地域社会からの孤立であり、また行動規範たる道徳の崩壊という帰結だったと思う。そうした文脈の中に、人々の紐帯である「絆」だとか、紐帯を作り上げる「コミュニケーション」、そしてその日常的な空間である「コミュニティー」が今の時代になって注目を集めているのだと思う。