実践する思考

政治学や経済学の知見をもとに、歴史や時事問題に関して考えたことをつぶやきます。

自由民主主義の価値

中国が目覚ましいスピードで発展を遂げている。台頭する中国を賛美する声が増えていく一方で、日本やアメリカなど自由民主主義諸国の凋落ぶりを嘆く声が聞こえない日はない。しかし、それでも私は声を大にして言いたい。自由民主主義にはそれ自体価値があるのだと。

 

権威主義国家において、人々に政治的な自由は保障されていない。たとえば、中国では共産党に対する批判や天安門事件をはじめとした人権弾圧など政権にとって不利益な情報は検閲の対象になっている。また、ロシアにおいても反政権デモが度々行われているが、その度に主謀者が拘束されている。

 

一方で自由民主主義国家においては、政治的自由などの基本的人権が保障されている。自由に物事を考え、それを意見表明し、時には政権に対して示威行動をとる自由が認められているのだ。日本やアメリカでは首相や大統領に対して批判することはもちろん、「(全く品のない)罵詈雑言」ですら認められている。

 

権威主義国家に対して自由民主主義国家には、こうした利点がある。しかし、問題はそれを行使しようとする人間が減少していることである。日本をはじめとした先進自由民主主義国家では投票率が年々減少している。政治参加から距離をとっている人が増えているのだ。政治過程に参加しない人が増加すれば、民主主義とは名ばかりの実質的な寡頭制となってしまうだろう。

 

経済が成長し、分配政策が適切になされているうちは権威主義だろうが、自由民主主義だろうが、人々に不満は生じづらい。しかし、成長が鈍化し、分配政策に陰りが見えれば、人々は不満を政権に対して抱く。権威主義国家ではそうした不満を政治過程が吸い上げる仕組みを持たないが、自由民主主義国家ではそれが選挙や世論という形で政治過程に吸い上げられる。権威主義体制と異なり、自由民主義体制の下では、市民の行動次第で政治が変わりうるのだ。

 

ここで言えることは、権威主義自由民主主義の大きな違いは、変革の主体が権力者か市民かどうかだということだ。大事なことは、変革の主体であるという自覚を市民がもち、実際に権利を行使することである。そうでなければ、せっかく保障された権利は名前だけの中身のないものとなってしまう。何か社会に不具合が生じたとき、それを自浄していく自己変革能力が自由民主主義にはある。その成否は市民が行動するかどうかにかかっているのである